鎌足から始まる藤原氏、そのルーツは中臣黒田。
その時点で、中臣宗家の入れ替わりがあった。
これはもう確定と言っていいでしょう。
その黒田は鹿島から来た。これが問題です。立証できません。
黒田は塩屋氏と姻戚を結んだ。塩屋氏は河内の豪族、ただし塩屋コノシロは東国の人なりと、大田亮氏が言っています。
この事に望みをかけたのですが、コノシロは7世紀半ばの人。
物部氏とともに中臣宗家が滅びたと思われるのが6世紀末。
塩屋氏と中臣氏が東国で結びついたと立証できたら問題ないのですが・・・
振り出しに戻って、黒田は確かに藤原氏の祖、その係累が逆に鹿島へ行った。という説も考えられます。
鹿島における中臣氏の確かな足取りは孝徳朝以降。7世紀半ばです。
それ以前にも中臣氏についての記述はありますが、史実としての信憑性に欠けます。
鎌足の所領も鹿島にありました。だからと言ってそれがどうだと言えば、う~ん。
他に中臣連正月と言う人がいます。大化のころ東国国司となっています。大化2年罪有りと書かれていますが、どういう人かわかりません。
これも東国国司。
まだまだ謎だらけです。
宗家の入れ替わりがあった。
この事については、そう異論はないと思います。
日本書紀には記述のある、仏教受認に対する争い、その中で物部守屋の側にあった中臣勝海の死。
また家伝や系図に記載された中臣氏の始めが黒田の子常盤から始まるとする記述。
こういった事実が、中臣氏の家系の断絶を示唆しています。
中臣黒田は鹿島から河内に進出してきた中臣氏の別系であり、勝海系とは別系統の中臣氏として存在していた。
この黒田の子常盤が河内の豪族塩屋連と婚姻関係を結びます。
おそらく、鹿島出身の中臣氏が畿内進出の足掛かりとして、塩屋連と手を結んだと考えます。
この時点で常盤は中臣塩屋連という復姓であった可能性があります。
中臣常盤は系図によれば欽明朝の人であると言います。
中臣氏系図ではこの常盤が中臣氏の始まりであるとします。
日本書紀に記述のある遥か昔の中臣鹿島大連は別としても、その存在は間違いないと思われる仏教受容の争いで名前が出る、鎌子、磐余、勝美の存在を全く無視して、ここに中臣氏が始まるとする記述は不自然です。
常識的に言えば、自分の家系はできるだけ古く書きたいのが当然です。
で、その子可多能祜(祐)は物部氏と婚姻します。
おそらくこのころ、ヤマトに入ったと考えられます。
またこの結婚で、塩屋を捨て、中臣氏に替わっていたかと。
これが敏達朝のころとされます。大体580年頃かと。
次が、御食子、前事奏官兼祭官、実在は間違いない人物です。推古、舒明朝に仕えたとされます。
7世紀前半です。所謂物部戦争により、物部氏、中臣勝海が滅びた後です。
この御食子、あるいはその父、可多能祜の代に中臣宗家の入れ替わりがあったと考えます。
京都へ行く用事があったので、ついでに京都国立博物館で行われている「大出雲展」をのぞいてきました。
まさにのぞいてくるで、じっくりとは行きませんでしたが、驚いたのは、なんと入場が無料でした。
学生料金ではいれると、よろこんで学生証を提示したら、奈良大学は提携しているので無料ですと言われました。
これには驚きと同時に感激でした。
内容は、これだけのものが一堂に会して見れる機会はそうないと思われる内容で、その前に少し歩いていたので、じっくり見るにはすこししんどかったです。
でも古事記の賢瑜筆本など貴重なものを目に出来ただけで満足でした。
ようやく計画書が合格と言う連絡が届いた。
直接大学へ行って、担当教授にお会いして、これで結構ですと言う返事はいただいていたが、正式に合格と言う通知をいただかなければ不安だったので、これで一安心です。
これでようやく本当にスタートが切れるわけです。
その却ってきた計画書に担当教授のコメントとして、通学生では6月が卒業論文の題目提出期限となっており、それまでに何度も学生とやり取りをして決める。
ところが通信生は「卒論計画書」の1回でそれを行うわけだから、ほぼ全員に1回目の計画書を不合格として、
再提出を求めたと書いてありました。理由としてせめて2回は卒論に向けてのやりとりを行いたいということです。
これには少し驚きました。でも逆に通信生にたいしても現役生と同程度の内容を求めていることもわかり、ある意味嬉しくもありました。
さらに、2回目でも不合格者があったようです。と言うことはもう来年3月に卒業できないことが確定したわけです。
その基準は
①当該分野について基礎的な知識を持っていること。
②当該テーマについての先行研究(論文)をすでに精読していること。
③有る程度、材料(史料)の目途がたっていること。
④草稿執筆に向けて、具体的な作業としてなにをするべきか、が定まっていること。
以上の基準が満たされていなければ不合格ということでした。
思っていた以上に厳しい水準を求められています。まさに身の引き締まる思いです。
毎日本当に暑いです。
私のと言うか、かって子供の部屋だったところを、私が勝手に勉強部屋にしたのですが、2階にあって本当に暑い。
でも、それぞれの部屋でクーラーをつけるなんて、贅沢すぎてこの節電の世の中できません。
と言うことで暑さを言い訳に、ここしばらくまったく卒論が進みません。
ある程度道筋は見えてきましたが、まだ霧の中。
はっきり姿が見えません。
ここまで、わかったというか、推論は。
中臣氏が河内の出自であることはまず間違いありません。
1番顕著な例が、枚岡神社の存在です。
氏神と言うのは農業に基づいています。
それだけに所在地やその周辺地と密接な関係があり他所へ移動することはありません。
その他に「中臣寿詞」とかも、河内説を補強しています。
じゃ、鹿島はと言うと、前に書いたように、中臣氏は物部戦争で破れています。
中臣勝海はその結果慙死しています。
そこで、この河内の中臣氏本流はいったん途絶えた。
しかし、祭礼を司る職掌柄、中臣氏は必要とされたため、鹿島から中臣氏が呼び寄せられます。
これが中臣黒田です。
黒田は中臣氏系図によれば、中臣氏の祖とされます。
しかし中臣氏はその仏教の容認をめぐる争いで、日本書紀に名前が出てきています。
ところがこの黒田は日本書紀には名前はありません。
要するに、中臣本家が滅びた後、鹿島から出てきた新興氏族だったわけです。
しかし、天皇家の祭礼を司る大切な役目があり、徐々にまた力を伸ばしてきます。
黒田の子、常盤その子、可多能祐、その子御食子が鎌足の父です。
御食子は前奏事官として、宮廷で重きをなしています。
その子鎌足については書くまでもないと思います。
以上のように、鎌足の先祖は鹿島から出てきた中臣家であったわけです。
しかし、そのことは平安時代になればもうわからなくなっています。
大鏡の時代にはそこで、鎌足が鹿島出身であると間違えて書かれるにいたった。
これが、大筋です。
でも想像では論文は書けません。
この事をある程度裏付ける必要があります。
中臣氏の宗家の入れ替わりにつては何人かの学者が認めています。
そしてそれが鹿島出身であろうと言うことを主調する論文もあります。
しかし決定打はありません。
証拠はなくても、なにかうかがわせるような話を今探しています。
それさえ見つかれば一気に完成です。
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