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データ処理論のスクーリングは終わりました。

2日目は酷暑のなか、約6kを歩いて写真を撮ると言う、なかなかハードな1日でした。

3日目にその写真を取り込んでレポートを作成。

言わば言われたとおりに作成すればできるわけですが、家に帰って自分でやろうとしても、できません。

はたして身についたかどうかは怪しいものです。

来週は美術史特殊講義。

これも2日目は現地見学で、学園前の「大和文化館」(明清の美術=爛熟の中国文化)

そして、法隆寺、中宮司の拝観です。

そして、これも3日目にその見てきたものから何点か選んでレポートを書くということです。

漠然と見学していてはレポートをかけないと、先輩からは忠告を受けていますので、結構大変です。

その次の週は「奈良文化論」。

これも現地見学があります。

それでこの夏のスクーリングは終わりですが、暑い中、なかなか大変なひと月です。

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昨日から、スクーリングを受けています。

今回は「データ処理論」ようするにパソコンについての授業です。

我々高齢者にとっては、パソコンと言うのは、人生の晩年になって初めて登場した、まったく見たこともないツールです。

もちろん、それについても習ったことはないし、生まれた時からすでに存在した若者とは大きなハンディがあります。

そんなわけで、教養科目でもあり、単位は関係ないのですが、ぜひ受けたかった授業です。

今日は奈良町いったいを散策して写真を撮り、それをパソコンに取り込み、文章を作成する予定です。

暑い中、午前中いっぱいを使って歩きまわりますので、結構大変ですが楽しみでもあります。

ところで、昨日寝ている時に思いついたのですが、中臣氏について、新たな発想が浮かびました。

と言っても、日本書紀に書かれていることを、いろいろ思い浮かべているうちに考え付いたのですが、敏達14年の記事に、2人の中臣氏が登場します。

勝海と磐余です。

勝海は前に書いたように、その時点における中臣氏の宗家、であれば、磐余は違うわけです。

そして磐余は黒田系の中臣氏の可能性があります。

そして、その磐余は武甕槌の神を通じて、物部氏、大三輪氏と結びついていたと考えられます。

ここから、磐余が鹿島の中臣氏である可能性が大きく浮かび上がってくるという筋書きが出来上がります。

これを進めていけば、卒論が完成します。

と、ここまで、寝ながら考えました。

しばらくこの事について調べてみようと考えています。


 

私は歴史に関しては、全く素人、ただの歴史好き人間です。

今まで歴史が好きで、歴史に関する本は好んで読んでいました。

でも専門書は全く読んでいません。

読むのは、歴史関係の読み物本ばかり。

今度奈良大学に入って、歴史文化財学科と言う、いわば歴史の専門学部の勉強を始めてしたわけです。

数々のレポート、そして卒論、初めて専門書を読みました。

古事記が物語性があることは知っていましたし、ある程度は読んだこともありましたが、日本書紀は今までは、たまに必要な部分の拾い読みでした。

今度必要に迫られて日本書紀をじっくり読んで、逆に驚きました。

日本書記は、歴史の羅列と思いこんでいましたが、こんなにも物語性があるとは全く知りませんでした。

今、大化の改新の前、田村皇子と、山背大兄皇子の皇位継承の部分を読んでいますが、その記述は、まるで小説のようです。

そして、そこからいろんなことが読み取れます。

まさに食わず嫌いでした。

こういったことの積み重ねが、まさにこの通信にはいった醍醐味と感じる今日この頃です。

 


 


 

日本書紀をながめています。

中臣氏の名前を探します。

6世紀欽明天皇13年(552)、百済の聖明王が仏像などを献上した時、天皇が群臣に礼拝すべきかどうか問うたとき、

蘇我大臣稲目に対し、物部大連尾輿と共に反対したのが、中臣連鎌子です。

鎌足とは別人物です。

敏達14年、疫病が流行した時、物部守屋と共に仏教信仰を建つべしと奏上、用明2年にも仏教信仰に異を唱えた人物、

中臣勝海です。

そして同じ敏達14年、蘇我馬子が病気平癒のため仏教信仰を願い出た時に反対したのが中臣磐余です。

中臣勝海は蘇我氏の家来(太子伝暦には太子舎人とある)迹見赤檮によって殺されます。

この鎌子と勝海は前に書いたように、中臣氏系図に名前がありません。

磐余は黒田の子、常盤の弟に伊礼波とあり、同一人物の可能性があります。

この3名は物部氏と共に蘇我氏に対抗し、仏教の受容に反対しています。

中臣氏の家職から言って当然と言えます。

そして、ともに反対にまわった物部、三輪氏は武甕槌神とゆかりが深い氏族です。

この事も書けばきりがありませんので置いておいて、ともかく、鎌子、勝海はその当時の中臣の宗家であったと考えて間違いがありません。

で、勝海が殺され、仏教受容の争いで物部氏も滅ぼされます。

中臣氏も当然滅ぼされたと考えて間違いありません。

その後、日本書紀に名前が出る中臣氏は舒明期の中臣御気から鎌足までありません。

ただ推古天皇の時、中臣宮地連鳥麿呂と言う人物が、書紀に登場します。

用明、推古の母、堅塩媛の葬儀に蘇我馬子に代わって誅(しのびこと)を奉っています。

蘇我氏に重用されていたようです。

この宮地と言う名前は後に意外なところで出てきます。

長屋王の謀叛を密告して、その時無位から外五位に取り立てたれ、後に長屋皇の家臣に殺された人物です。

と言うことは、この中臣宮地はその後はあまり出世しておらず、中臣氏のなかでも傍系だったと思えます。だからこの宮地は無視してもいいかと。

 

そして、中臣氏系図には中臣氏は中臣黒田より始まると書かれています。

常識的に考えて、勝海の代でその時の宗家は滅びて、代わって黒田系の中臣氏が宗家になったと考えて間違いありません。

そして黒田から3代目、御気が書紀に登場します。御気はすでに政府高官です。

宗家の入れ替わりがあって、黒田系の中臣氏が徐々に中央で力をつけてきたということでしょう。

そしてその子が、鎌足。当然反蘇我氏です。

 

前に書いたように、黒田は河内の豪族塩屋氏と姻戚を結び、畿内の置ける一歩を踏み出します。

その時点で、中臣塩屋連と言う復姓だったかもしれません。

この中臣塩屋氏には枚夫と言う人物がいて山背大兄皇子を攻める主要メンバーに入っています。

つまり、蘇我氏に近いわけです。

このころ黒田系は塩屋姓を捨てます。

枚夫の子と考えられるコノシロも中臣姓を捨てそれぞれ道を違えます。

コノシロはやがて有間皇子に味方し、鎌足と敵対し殺されます。

以上が、私の考える中臣氏の歴史です。

大筋間違いはないと思います。

鹿島の中臣氏が畿内に出て来て、足場を築く本は塩屋氏であっただろうと言うのも間違いないと思います。

でも肝心の、黒田が鹿島出身である証明はできません。

大きなウイークポイントをまだ残しています。

 


 

夏のスクーリングが始まりました。ただし来週はお盆でナシ、そこから3週連続です。

この3日間は「神話伝承論」

上野 誠教授です。

奈良大の看板教授の一人。

マスコミによく登場する方です。

さすがに話はうまく引き込まれました。

今日は古事記の序について、明日は平城宮跡へ学外授業です。

午前、午後の最後に必ず小論を書かなければいけないので、授業を注意深く聞かなければいけません。

ところが今日は朝3時半に起きてサッカーなでしこを見ていたので、眠くて眠くて・・・

明日は男子もありますが、見ずに我慢することにします。

言い訳ですが、そんなんでしばらくは卒論はお休みです。

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