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今日で友の会、広報部会の仕事はおしまいでした。

7月に総会があるので、その時にお渡しできるように、会報誌3号を作成しました。

会員以外の方には、友の会のホームページで閲覧できますのでご覧ください。

正直手に余る役割で、終わってほっとしています。

友の会自体も、当初「緩やかな連携、会員相互の親睦」とうたっていたはずが、マニフェストじゃないですが、いつのまにか、違っていて、ついていけなくなったのが正直なところです。

もうこれで、いろいろ時間を取られることもなくなりますので、ゆっくりと本が読めるので楽しみです。

今は「藤原不比等」と言う本を読んでいます。もう1冊著者が違う同じ題名の本があるので、次はそれを読む予定をしています。

論文の本論と直接は関係ないのですが、藤原氏の氏神である春日大社を調べる以上、回り道でも実際上の初代の藤原氏である不比等関係は押さえておかなければなりません。

鎌足が亡くなった後一時、藤原氏はなくなっている時期があります。

天智天皇の近江朝で、鎌足亡き後中臣金が右大臣に登用されています。

中臣氏は古代はともかく、5,6世紀には議政官には登用された例は皆無で、その結果あの鎌足でさえ内臣にとどまっていましたが、その死に際し、大織冠を授かり、大臣位と藤原の姓を賜りました。

この大織冠というのは冠位二十六階の最上位であり、天智朝で織、縫、紫の上位六冠は授与された例はなく、いわば不授与の幻の冠位と言っていい最高の冠です。

で、鎌足がその最高位を授与された恩恵を持って、中臣金の右大臣があるわけですが、不比等がまだその時幼少であったこともあり、その中臣氏の族長を不比等は継承できなかったのです。

しかし、まさに禍福はあざなえる縄のごとし、そのおかげで、不比等は壬申の乱に巻き込まれず生き残れ、大友方についた中臣金は斬罪となりました。

天武、持統朝にあって、中臣氏を代表して用いられたのは、中臣金の甥、父が金の弟である中臣大島です。

しばらくは不比等にとっては雌伏の時です。

天武天皇十三年(684)八色の姓が制定されます。

不比等26歳です。

中臣氏はこの時朝臣の姓を賜ります。中臣連は中臣朝臣となったのです。連氏姓で朝臣を賜ったのは、物部氏と中臣氏の2氏のみ。この時点で藤原姓はありません。

そしてこの後、中臣氏は藤原姓を名乗ることを願い出て、勅許をえます。

この時点で、藤原姓を名乗ったのは先の大島です。天武天皇十四年九月以降、藤原朝臣大島と称します。

この時不比等は二十八歳、まだ史書には登場しません。

日本書紀に不比等が記されるのは、持統天皇三年、判事への任命の記事です。

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中臣氏が常陸出身だと言う説。

中臣氏が枚岡あたりの出身で、だから枚岡神社が氏神として枚岡にあり、基本的に農業を基盤とした古代では、氏神は動かないという説。

これを当てはめれば、鹿島社が常陸にあり、中臣氏が氏神と言う以上、常陸が出身の地と言うことになります。

ただし、中臣氏は河内、藤原氏(鎌足を始祖)は常陸。

だから春日社は両方をお祭りしているということです。

また大鏡、あるいは談山神社の縁起に鎌足が常陸の生まれとあります。

常陸側の鎌足の生い立ちはこうです。

推古21年(あるいは22年)に常陸国鹿島神宮の神官である御食子の妻が臨月となった。

そこで屋敷を出て、海(北浦)辺の産屋に移って男子を出産した。名を鎌子という。

成長すると極めて利発な子となり、鹿島で一生を終わらせるにはあまりに惜しいので、奈良の都へ上らせ、中臣本家に養子となる。

曽我氏の横暴に、怒りを御覚えた鎌子は神祇伯を拝しながら病と称し摂津、三島に引きこもり曽我氏打倒を図る。

そして中大兄皇子と組んで入鹿を撃ち、その後は天智天皇を支え、やがて紫冠を授けられ、最後には大職冠を受け藤原の姓をたまわった。

出生の身分が低いので、その後の出世とあわせ、出身のことは秘密とされ、飛鳥藤原の生まれということにされている。

ざっと書くとこんな感じです。

いうなればこの事がどれだけ正しいか、あるいは正しくないかを解明することが、私の卒論のテーマです。

臣(オミ)と連(ムラジ)とは何が違うか?

臣姓を称する氏は、平群臣、葛城臣、などと、多くはヤマトの地名を、氏の名前にしています。

ヤマト王権の中で、かっては王権と並ぶ立場にあって、ヤマト王権でも最高の地位をあたえられた豪族ということです。

いっぽう連(ムラジ)は大友連、物部連のように、その部族の負う職制を氏の名前としていて、朝廷内の政治組織として生まれた部民の統率者に与えられ、ヤマト王権の官人としての立場で、ヤマト王権の成立に重要な役割を果たした豪族と考えられています。

よくわかりませんが、要するに最初からのヤマト王権の家来か、最初は対立するぐらいの勢力を持っていた豪族かと言うことだと思います。

で、中臣氏はもともと連(ムラジ)であったのが、臣に変わっていった、あるいは変わろうとしたという説。

私には何故そうまでして臣姓になりたかったかが見えません。

臣姓氏族のように伝承を作って朝臣の姓を得ようとしたということですが、結果からみると失敗と言うことになりますし、

その後の藤原氏の繁栄からみれば、何の意味もない行為と言うことになります。

大体中臣連が臣になれば、ナカオミ氏ですが、じゃ何故ナカトミと読むのかのも謎です。

臣という字は、漢和辞典で調べても、ジン、シンとしかなく、トミとは読めません。

結局、中臣氏については、良くわからないまま先へ進むしかなさそうです。

次は核心にふれる本貫地の問題です。

ようするに常陸が中臣氏の出身地かどうかです。

もし出身地であるなら、春日社に常陸の鹿島の神が祀られるのは、いわば当たり前、そうでないなら、謎です。

中臣氏の臣が少し問題です。

地名説にしても職名説にしても、ナカ+臣です。

ところが中臣氏は連姓です。

単純に考えると、臣姓と連姓を両方重ねるのはおかしいから、臣と書くが姓(かばね)ではないということになります。

もうこの辺になってくるとわけがわかりません。

記紀の神代編で、垂仁紀に中臣鳥賊津使主と言う人がいます。

使主とかいてオミです。

でも、その上に中臣がついています。だから重複を避けてこの字を使ったとも、いやこのオミがほんらいのオミだとも考えられます。

臣姓の名を持ちながら連姓を称する、この問題には中臣氏の勢力の移り変わりに本があるようです。

もっか、この辺で行きづまり中です。

春日社の創建については、まず中臣氏について調べないといけません。

一応中臣氏は天児屋根命が祖神と言うことになっています。

なっていますと言うのは、いい加減ですが、記紀の記事以外には実際のところは確認しようがありません。

天児屋根命は津速魂命(ツハヤタマノミコト)の3世の孫で、その津速魂命は天御中主命(アメノミナカヌシノミコト)の6世の孫となっています。

だから1番の本は天御中主命です。

でもこの神さまは名前の通り、天の真ん中の神と言うことで、あまり実在性はありません。言わば想像上の根本の神さんです。

古事記や日本書紀ができたときにその時勢力のあった豪族が自分らの祖先を天孫族に結び付けたと考えられています。

逆に言うと、天孫族に結び付けて系図を作れた氏族はその当時力があった、有力豪族と言うことです。

この辺に時代のことは書きだしてもきりがありませんし、あんまり本論とは関係がないので、ともかく中臣氏は天児屋根命の子孫だということだけ覚えておいてください。

この中臣と言う姓についてもいろいろ議論があります。

地名説と職名説というのがあります。

要するに中臣と言う名が地名から来ているか、仕事から来ているかということです。

ナカトミというのは、ナカツオミ。ナカが地名、ツは接続詞、オミがカバネというわけです。

ナカは例えば、豊前仲津郡、常陸那賀郡といったところです。

職名説は中臣と言うのが、神と天皇あるいは人との仲を取り持つ職だから中の臣ということです。

どちらかと言えば職名説の方が優勢です。

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