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アカダマブログ
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今年2月に上梓いたしました拙筆「奈良・高畑町界隈ーその歴史と伝承」
に関して、今年の奈良新聞社文化賞を頂きましたことを報告させていただきます。
10年来このブログに少しづつ書き続けてきたことの集大成で、このような名誉を頂き、
このブログを読んでいただいていました皆様に御礼と感謝申し上げます。


 





人生も晩年に差し掛かり、一度ここらで、区切りとして、本にしようと
漫然と考えていましたが、その本が現実となり、しかもこのような賞を
頂けるとは夢のようです。
アカダマを約40年営業してまいりましたが、2011年に心身の衰えを感じて
引退し、その年に奈良大学通信教育部文化財歴史学科に入学して、歴史学を
一から学び、卒業論文として春日社を取り上げましたことがすべての始まりです。
ただ卒業論文では枚数の制約、時間の制限もあったことから、
満足のいく内容ではなく、その後も春日社について調べを継続していました。
そんな時、町内の地蔵さんのお祭りがあり、町内の方がこの地蔵尊に関して
町の古老から聞き取りをされた印刷文を頂き地蔵尊の由来と高畑町の歴史に
興味を持ったのが、始まりです。
色々調べていると、町内の方にいろんな教示を頂き、ますます
のめりこんでいくことになりました。
そんな時、高畑町の産土神である鏡神社の方から、先々代の宮司さんである
梅木春和さんが収集された数々の高畑の伝承集を頂きました。
これを見た時、この伝承を出版して後世に伝えなければいずれは
消滅するのではないかと言う思いを抱きました。
その伝承の背景を調べて行くと、結局、私が奈良大学の卒論で選んだ
春日社の歴史へと繋がって行きました。
さらには、春日社の代々の禰宜家で現代に唯一残された禰宜屋敷の
藤間家の修理事業がスタートし、その藤間家の当主が私の同級生である縁、
また、その調査を担当されているのが私が奈良大学に入学した時の通信教育部長であった
西山要一先生であると言う縁も重なり、本に仕上げようと言う気持ちになった
その時、コロナ禍が始まり、更には私自身が目の手術をし、視力に不安を
感じると言う事態も重なり、のんびり、何時かはという思いが、今やらねばと
言う強い気持ちへと変わって行きました。
これが今回の出版への経緯です。
こうして上梓した本で、思いがかない、更にはこのような賞迄
いただけるのはまさに想定外の慶事で、感謝の思いしかありません。
この本の出版にさいしては、同志社大学の後輩である大淀町の学芸員
松田 度さんに多くの手助けを頂きました。
最終のチェックには奈良大学の先輩である狭川真一さん、出版には
アカダマの後継店である「ことのまあかり」の生駒さんの、お世話を頂きました。
そのほか、大勢の方々の協力なくしては本の完成はありません。
この場をお借りして御礼申し上げます。

このアカダマブログは、私の高齢化もあり、今年いっぱいぐらいで、
終わりにするつもりです。
本当に長年に渡り、私のつたないブログを読んでいただきました皆さんに、
あらためて感謝と御礼を申し上げます。
又いつかどこかでお目にかかりましょう。

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竹取物語は、『源氏物語』に「物語の出で来はじめの祖(おや)なる竹取の翁」
とあるように、日本最古の物語といわれ、9世紀後半から10世紀前半頃に
成立したとされる仮名によって書かれた最初期の物語です。

物語は、竹取の翁が竹の中から得た娘、なよ竹のかぐや姫が、
五人の貴公子の求婚に難題を出して失敗させ、
天皇の召しにも応ぜず八月十五夜に月の世界に去ると言う話です。

かぐや姫の求婚者の5人内3人「右大臣安倍御主人」、「大納言大伴御行」、
「石上麻呂」は天武、持統朝に仕えた実在の人物が登場します。

あと2人の内、石作皇子は「多治比嶋」、車持皇子は「藤原不比等」が
モデルと言われています。

この5人の人物はいずれも天武・持統朝に仕えた貴族であり、
さらに大伴、物部、阿部、藤原と皇親と言う古代よりの名門氏族でもあります。

そして大宝元年(701)に大納言大伴御行が薨去した後、
左大臣嶋多治比も同年に薨去、嶋の次に阿部御主人がしばらく最高位の右大臣、
次に左大臣となったのは石上麻呂、その後の政権の中心は藤原不比等と、
天武・持統朝の高官がほぼ順番に求婚者のモデルとして登場します。

5人のうち最も卑劣な人物として描かれる車持皇子は藤原不比等に
比定されることから車持皇子を「卑怯な人物である」と
書くことによって藤原氏を批判しようとしていると言う意見もあります。

しかし、弘前の医師である大橋氏の若き日の著作『私的 万葉集考』(平成5年発行)では全く違う考察をされており、私もこの説に痛く興味が引かれ、
ここに紹介したいと思います。

大橋氏は求婚者の一人として書かれる大伴御行の歌に注目します。

      大君は 神にしませば 赤駒の 腹這ふ田居(たい)を 都と成しつ

万葉集 巻19 大伴御行

「大君は神にしませば」という表現で壬申の乱に勝利した天武天皇は、
この時点で人から神になったと考えます。

そしてかぐや姫と言う名前から香具山を、そして持統天皇の歌を連想します。

   春過ぎて 夏きたるらし白たえの衣ほしたり天の香久山

    万葉集 巻1 高天原廣野姫

此の歌は普通、叙景歌と理解されていますが、長谷川櫂氏によれば、
白たえの衣は喪服を表し、この歌は天武の喪に長く服していた持統天皇が、
喪服である白たえの衣を脱ぎ捨て、自ら国政に取り組む決意表明の歌と解釈されています。

以上を踏まえて、竹取物語は天武天皇は人ではなく神であり、その妃、
持統天皇も神でなくてはならぬ。
その故にかぐや姫は天武・持統朝の人である高官の求婚、さらには天皇の求婚さえ断って、
神になって天に昇っていかねばならぬというわけです。
私もこの解釈には心惹かれます。他府県の方は知らず奈良県人の私としては、
都を奈良から山背へと移した光仁、桓武天皇は好きではありません。

ですから竹取物語は藤原氏の対する風刺と言った意味はなく、
古き良き時代であった天武・持統朝に対する郷愁を感じる氏族の誰かが、
その天武・持統の子孫が築き上げた奈良の地を離れた所謂天智系とされる
平安時代以降の天皇に対する皮肉を込めた物語であると、
私は勝手に解釈したい次第です。

 

 


猿沢池の采女の話は『大和物語』に記載されています。

『大和物語』は、はっきりしたことは不明ですが、
大体天暦5年(951)か6年頃を一応の成立時期とされています。

作者についても在原滋春、花山院、篤慶親王の侍女大和説と
定説はありません。
形としては歌物語ですが、伝承を建前としながら実在の人物や
官位を記載していることも特徴です。

猿沢池の話は第150段。

「むかし、奈良の帝につかうまつる采女ありけり。
   顔かたちいみじうきよらにて、」という書き出しで始まる。

そして采女が猿沢の池に身を投げたことを帝がきこしめして、
いとあはれがり、池のほとりに御幸したまひて、供の人麻呂に
歌をよませたまふ。

 人麻呂が天皇に変わって読んだ歌
   わぎもこが ねくたれ髪を 猿沢の 
         池の玉藻と みるぞかなしき
 帝

 猿沢の 池もつらしな わぎもこが 
          玉藻かずかば 水ぞひまなし
                    註 「玉藻かづく」は入水すること

奈良の帝というのは一応平城天皇とされるが、奈良時代の天皇としても
人麿とは時代が違い、正確な歴史事実ではなさそうで、かなえられない恋のため
入水した女の古くからの伝承があり、それを歌物語に仕立てたものと考えられます。

伊勢物語も、この大和物語も、歌があり、それに物語をつけた形式です。

この采女を祀ったとして、采女神社が猿沢池の西北池畔に西向きに鎮座しています。
但し鳥居は本殿の背後、猿沢池に向かって東向きに開いています。
『奈良坊目拙解』に
「上古この地、興福寺別院の領内にて、子祠を坊の東北の角に建つ、
後世、在家となるに及び、新たに東に口を開き鳥居を建つるなり、、」
とあります。
鳥居を入って背を向ける本殿はおかしいと言うことで、一時期本殿を
東向きにしたことがあったようで、寛永11年(1634)
「采女宮東向安鎮御表玉串祓」と書かれた箱書き銘が当社に遺されています。
「此の当宮往古より西向きの神社なるを、此度依御寺務一条院様幷
学侶六方衆会、東向奉安鎮座所也、、、、」
寛永11年申戊3月4日下遷宮、同晦日上遷宮

この神社の最古の記録は『大乗院寺社雑事記』応永2年(1468)
10月5日条。

猿沢池は奈良朝以来興福寺の放生池、中世には竜神が住む聖なる池
と信じられていました。
多くの放生池には弁財天女が祀られており、
弁財天は水に縁の深い龍蛇信仰と同一視され、采女との関係で言えば
采女が入水して龍体と化し、その龍が弁財天に昇華すると考えられます。
また、猿沢池には名月の夜、池に手足をつければ霜焼けにならないとか、
その月の光で針に糸を通すと裁縫が上達するとかいう庶民信仰が伝えられています。
また、猿沢池では毎年中秋の名月に悲恋のヒロインの采女を鎮め慰めるため
花扇舟や管弦船が池を巡りますがこの神事は実は昭和24年から
始まった新しい行事です。
現在祭神名は事代主となっていますが、明治維新の神社改革で改正されたものですが、
古い由緒があるに関わらず、この改名はいただけません。
寛文11年(1671)春日神社文書・第2に当社下遷宮祝詞として
「かけまくもかしこみ、采女霊神乃宇津乃広前に・・・・」とあるそうです。

長年の夢であった標記の本を、この度刊行いたしました。
 私は奈良生まれの奈良育ちですが、生まれたのは奈良の中心街、
東向き商店街の真ん中で、そこで二十まで過し後、高畑に転居しました。
それでも、もう高畑に暮らして半世紀以上が立ちます。

春日大社との変わりは高畑に転居するより古く、
父が戦後の最初の春日大社の宮司であった水谷川忠麿氏と親しく、
戦後、全く未知の土地に引っ越し、土地の人たちとも交流のなかった水谷川氏と
奈良の人たちとの交流の場をもうけようと、十日会という宮司を囲む会を
立ち上げたことから始まります。
この会は今でも存続してはいますが、発起人はすべて鬼籍に入り、
メンバーも入れ替わり、当初の趣旨を知る人もいなくなっています。
それはさておき、そういうことで、春日大社に父に連れられ子供の頃から
出入りしていましたが、さらに、大学に入った年に、何を思ったのか、
その当時の春日古楽保存会今の南都楽所に入り、雅楽を始めてしまったので、
稽古もあり以前にもまして、春日に出入りする機会が増えました。

そういうわけで、春日大社というのは私にとっては、むしろ意識にない
空気のような当たり前の存在でしたが、退職後奈良大学に入り、
卒業論文のテーマを選択するにあたり、春日大社を取り上げようと
思ったのは自然な流れでした。
ところが、そこで思いもかけず、担当の寺崎教授より
このテーマは難しすぎるからやめておけと言われ、
逆に火がついてしまいました。
後で聞くと、先生は、最初覚悟を試すため誰にでも一度は
クレームをつけたそうで、
私も見事にその罠にはまったようです。
こうして春日大社の成立について卒論で取り上げたのですが、
やはりあまりにも奥行きが深く、とても調べつくすことはできず、
卒業後も継続して色々調べていたのですが、
こうした時、高畑の自治会長の役が回ってきました。
その年の地蔵盆、町内の地蔵さんの由来について話を聞く機会があり、
興味に惹かれ調べ始めたのですが、これが意外と奥が深く、
高畑町の歴史を知らべる必要があり、いわゆる社家町の歴史、
そして社家の歴史、そして春日大社の歴史と結局、気が付けば
元の卒論のテーマへと戻ってきました。
さらにはその過程で、鏡神社の先代宮司が集めた伝承の数々を
見せていただく機会もあり、ますますテーマが広がっていき
その時に調べたことを本にしたのが今回の本です。
本の詳細については下記をクリックしていただければと思います。

http://nara-furukoto.shop-pro.jp/?pid=157046346

武蔵野のことをずっと調べているのですが、少しだけ手掛かりが見えてきて、
どうやら伊勢物語が関わっていることがわかりました。
そこで、伊勢物語、在原業平を調べてると、実に興味深い人物でした。

卒伝『三代実録』元慶4年(880528日条

28日辛巳、従4位の上行右近衛の権中将兼美濃権守在原朝臣業平(しゅっ)す。

阿保親王、桓武天皇の女伊登内親王を娶り、業平を生む。

業平体貌閑麗、放縦にして、拘はらず、ほぼ学才無し、よく倭歌を作る。

 

貞観4年3月従5位上を授けられ、数年にして左近衛権少将に遷り、
尋いで右馬頭に遷り、累加して従4位下に至る。)

 元慶元年、遷りて右近衛権中将となり、明年相模権守を兼ね、 後に遷りて美濃権守を兼ぬ。
卒する時、年56。」
ほぼ学才なし。と切り捨てられていますが、決して勉強ができないという意味ではなく、
当時の学問というのは漢学ですからその方面には弱かったということで、
代わりというか倭歌に優れていたということです。

業平は歌人としてその名を『古今集』に不滅のものとして残しています。

『古今集』は業平没後約四半世紀、醍醐天皇の名を受けた紀貫之等によって
編纂されたわが国最初の勅撰和歌集ですが、選者である、貫之の102首を筆頭に,
凡河内躬恒、紀友則、壬生忠岑の作が多く採用されています。
その序文に「六歌仙」として業平、僧正遍照、文屋康秀、喜撰法師、
小野小町、大伴黒主の名をあげています。
その中でも小町18首、遍照17首に対し業平は30首採用されています。

 古今集序文で業平の論評として
「その心あまりて、言葉足らず、しぼめる花のいろなくて、
にほひのこれるがごとし」としているのは、これも悪口ではなく
31文字に盛り込むにはあまりに豊か過ぎた業平の情感を言ったものと。
解釈されます。
 

 さて問題は父の阿保親王ですが、平安時代初頭藤原式家の薬子の乱で
連座して太宰権帥に左遷されます。
弘仁15年(824年)に至って平城上皇の崩御後、叔父の嵯峨天皇によって
ようやく入京を許されます。

一方この事件により平城天皇の第3皇子高岳王子は皇太子を廃され、
その子女は在原姓となり臣籍降下しました。
  高岳親王に変わって皇太子に嵯峨天皇の弟淳和天皇。
時の嵯峨天皇を助け功があったのが北家の冬嗣,蔵人頭として天皇側近となり、
北家全盛の礎となりました。
次に帝位についたのは嵯峨天皇の皇子仁明天皇、皇太子は淳和天皇皇子
恒貞親王であったが、承和9年(842)7月に嵯峨上皇が亡くなった2日後
密告が嵯峨天皇皇后檀林皇后に届き伴(大友)氏一族が失脚、
恒貞親王は皇太子を廃され、仁明天皇皇子通康(後の文徳天皇)が
皇太子となる 承和の変が起こります。

この通康親王は藤原北家冬嗣の子良房の妹順子と仁明天皇の間の子で、
良房の甥にあたる。

『続日本後記』によればこの密告者が業平の父阿保親王で、良房に利用され、
その後ろめたさを抱え、同年10月に亡くなったとおもわれています。

仁明天皇はその死に際して一品を贈って労を報いたが、
その宣命

「慮(オモハ)ザル外(ホカ)ニ忽チ朕ガ朝廷ヲ置キテ罷リ巫シヌ。
聞食(キコシメ)シテナム驚キタマヒ悔ヒタマヒ哀レミタマヒツツ」は、
密告直後から死に至るまでの間、
親王が邸内に引きこもって全く出仕しなかった事実からも自殺を思わせます。

この時業平は18歳。
このことが業平の人生に大きく影響を与えたと思われます。

そして、伊勢物語の2つの大きなテーマである、
二条后、伊勢斎宮に関わっていくわけです。

 



 

 

 

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奈良市にあった喫茶店『可否茶座 アカダマ』の元マスター.
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