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それでは、春日社の起源の確実な文献資料はなにかと言えば、まず、

天平勝宝七年(755)の官符で「紫微中台祭」として従来光明皇后が祭られてい

た「春日社四所」がこの年に「官神例」すなわち官社の班に加えしめられたことを布告

したものがあり、ここから、これより以前に春日社が発祥していたことをうかがわ

せます。


また有名な正倉院所蔵の『東大寺山堺四至図』で天平勝宝八歳
(756)六月九日と

銘記された図において「神地」と記された一画が、現在春日大社の南門を含む回廊に

よって囲まれた地と一致しており、この「神地」が春日大社そのものを指したものと

考えられます。


この図は正倉院展でも何度か展示されていますが、現在は確か、東大寺ミュージア

ムでも展示されているはずです。


何年か前、新薬師寺の金堂跡が発掘され、改めて、この図の正確さが見直されたの

は、記憶に新しいできごとです。


この図は建物が存在すれば必ず図示しており、この「神地」には斎場のみで、神殿

などの設備は存在しなかったことが知られます。


『続日本紀』天平勝宝二年(750)二月に孝謙天皇の春日酒殿への行幸の記事が

あり、春日社がこの時期に既にあったことを窺わせます。


ただ、酒殿は弘法太師空海の『高野絵図巻』などに収載する「高野山図巻」に天野

の丹生・高野両明神の山下の三谷の「国司幷国内上下捧幣所」のことを「丹生・高野

酒殿」とか「三谷酒殿」と記してあり斎場(祭場)の意味と考えられ、この春日酒

殿も臨時の施設である可能性が高いです。


神社は建築史から見ると、二つの系統があると考えられています。


一つは最初から神殿を建てられていたもので、


これを「みや」
(御屋・宮)といい、それから「との」(殿)を派生してきたものです。


二つは、最初は注連縄などで結界している一定の空地、すなわち神地・斎場・斎

所・禁足地だけがあって、神殿は設けなかった、いわゆる「やしろ」

(
屋代。社屋の代わりの意)から出発してきたものです。


「日本書紀」に、崇神天皇の六年に、大和の笠縫邑に天照大神を祀ったが、そのと

きヒモロギ(神籬)をたてたとあります。


笠縫邑は檜原神社に比定されていますが、今も檜原神社には拝殿も本殿もなく、

三ツ鳥居だけがあり、三輪山が御神体となっています。


古代に於いては、その鳥居さへ不要で、ヒモロギは、神が降臨する場所を常緑樹で

囲うだけで、祭りが終わると即刻、取り壊すのが常例でした。


後に祭場に仮小屋を建てるようになりましたが、それも祭りの直後には取り壊して

いましたが、やがて仮小屋をそのまま残しておくようになりました。それがヤシロ

の原型です。



一般に「みや」および「との」は、祭神はそこに常住しておられるけれど、

「やしろ」においては、おりおりの祭りに当たって来臨・影向せられるものです。


春日社は本来の社号は『延喜式神名帳』にいう「春日
神(四座)」であって、

それは影祀・遥祀、ようするに遥配所であり祀りの執行にあたって鹿島・香取・

枚岡・相殿の四所明神の降臨・影向を乞うたものであり後者です。


神社はこれを訓読すれば「やしろ」となります。


したがって神社の大部分は、「やしろ」の系統に属するものですが、時代を経るに

従って仏教寺院の影響もあり次第に永久的建造物としての神殿の建造が求められる

ようになっていきます。


つまり「神地」とよばれる一定の空地だけでは人々は、これを社と考えることがで

きなくなったのです。


春日社もこうした時代の風潮に従って、後に春日造りと称される洗練された神社建

築を創造するのですが、『東大寺山堺四至図』にある神地は、まだ「やしろ」の場

であり、神祀りをする空地である可能性が高い。


また一方、ミヤに関しては、神祭りする庭であり、必ずしも建物を必要としないと

いう説もあります。

『日本書紀』敏達天皇一四年八月の条に「(きみ)(みや)」と言う言葉が出て


沖縄では、現在も庭をミヤーと呼び、沖縄本島の東南、久高島では、祭りのおこな

われる広場をウドンミヤー(御殿庭)と呼びます。

ウは御、トンは祭場に建てられる建物をさします。


それでは『古社記』の言う神護景雲二年は何を示すのでしょうか。

『三代実録』元慶八年(884)八月二六日申寅の条に、

「新造
神箏二面、奉春日神社

神護景雲二年十一月九日所充破損也」

とある春日大社の祭器として奉納された神琴二面が破損したので、この

元慶八年八月二六日に新たに製造して奉納したという記事は、少なくとも神護景雲

二年十一月九日に祭が執り行われていたことを示す確実な証拠ですが、そればかり

でなく春日祭の執り行われた最初を意味するものと考えられます。


このことから時風の記文にある

 

 

「神護景雲二年十一月九日寅時」は、この吉き年の吉き月の吉き日の吉き時を以っ

て社殿が新築落成し、これが春日社においての創立の時とされたと解釈するべきで

しょう。

春日祭において奏上される『延喜式』巻八、祝詞式にみえる「春日祭祝詞」が神

護景雲二年十一月九日の日付を持つ『神祇官勘文』の「春日御社祭文」と細部の異

同はあるもののほとんど同一であることも、春日祭が創立祭であることを現わして

います。


新抄格勅符抄の大同元年(806)牒のうちに、「春日神 廿戸 
常陸(  天平)(神護)鹿島(元年)社奉寄」と

あり、天平神護元年(765)に鹿嶋神宮が封戸を春日神社にさいたことが書かれ

ていますが、これも春日社社殿の建設に合わせたものと考えられます。


同じく新抄格勅符抄収、延暦二十年(801)九月の官符


 一 応
神符春日祭料

  調布五百端 常陸国鹿嶋神神封(下総国香取神封)三百端(二百端)

  庸布三百端 商布六百端

   麻布百斤 紙六百張 香取封物

   右件神封物、割充如前、仍須毎年納送祭所、自余雑物一同前符、官宣承知依件施行

一 停止春日神封廿烟常陸国

  右割神封物祭料事、仍納件物還口収、下符民部省畢、官宣承知依件行一レ之、符到奉行、

   延暦廿年九月廿二日

「件神封物、割充如前」、「自余雑物一同前符

とこの処置が前例の踏襲であることと同時に、天平神護元年の封二十戸の

廃止を載せていることからも、天平神護元年より引続づいた処置であるこ

とを示しています。


神護景雲二年という時期には、天平宝字八年(764)の藤原仲麻呂の死、天平神

護一年の和気王の死、淡路廃帝の死、道鏡の太政大臣禅師への任命、また考謙天皇

に後継者がなく、藤原氏の血統が絶える可能性等の、その時期に於いて、新興の氏

族である藤原氏として、氏族の結集を図る必要に迫られる出来事が多く、その精神

的紐帯として、最後の藤家の血を引く称徳天皇の勅命により氏の長者である永手に

よって氏神社を祀るべき十分な理由が存在します。


そのことは、春日祭祝詞が、春日の神の加護によって、藤原氏及びその血を引く諸

王が朝廷における高位を保持し、藤原氏を発展させていくようにという祈願が込め

られていることからも理解されます。


以上の事から春日の地に春日社が創立された時期について、『古社記』に言う神護

景雲二年は、春日祭祭文で

「春日
御笠下津磐根宮柱広敷立、高天原千木高知」とあるごとく、

宮柱を広敷立てた殿舎創立の年であり、春日祭はその殿舎の創立祭として始められ

たものと考えられます。

 
実際の春日社の創立は、もう少し時代を遡り、文献上確実には七五〇年代。


おそらく平城遷都の時期、藤原不比等の手によって、新興氏族藤原氏の守り神とし

ての「春日社四社」の遥拝社として、御葢山の「神地」と図示された場所に創設さ

れたのであろうと思われます。


それは現在、春日若宮の祭礼「おん祭り」が執り行われる「御旅所」のように、お

祭りに際して簡単な社を建て、そこへ神をお迎えして祭礼を執り行う形であろうと

考えられます。


このことは昭和五十一年に中村春壽氏の手によって発掘された、御葢山を西方から

コの字形に取り囲むように築かれた築地が、平城宮の建設と、時を同じくして造作

された傾向があることからも推察されます。


『神宮雑例集』には和銅二年(709)に春日社創建の記事があり、従来あまりに

も早すぎることから、あまり重要視されていませんでしたが、平城京が不比等の言

うなればプロジュースで作られたわけですから、遷都に際し平城京を眼下に見下ろ

す地に氏寺である興福寺、氏神である春日社を建てたと考えるのは、むしろ自然な

ことでしょう。

 

 

 

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有益な論考です
春日大社の由来・縁起がよくわかりました。
半分近くは調べていたところで、未知の部分を補ってもらったところです。ありがとう。

 皆さんの紹介できるようにしたい。
大石孝 2021/06/28(Mon)12:20:15 Edit Top
Re:有益な論考です
>春日大社の由来・縁起がよくわかりました。
>半分近くは調べていたところで、未知の部分を補ってもらったところです。ありがとう。
>
> 皆さんの紹介できるようにしたい。
大石様
 コメントありがとうございます。
私の奈良大学の卒業論文のテーマです。
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