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一般には社家とは代々その神社に奉職する家柄という意味で使われていますが
春日大社の社家とは『古社記』が伝える鹿島大神に供奉して上洛した
中臣殖栗連時風・秀行の子孫が相承する正預家辰市・大東両家の子孫と、

元慶2年(867)に神祇官人大中臣氏が来任して神主となった大中臣(中東家)、
さらに保
元年(1135)に若宮が創建されて若宮神主職となった千鳥家、
そこから分かれた分家を加えた数件を社家と呼びます。

社家の祖とされる時風・秀行が実存の人物であるかは、伝承の世界ですから、
確認できませんが、鹿島から神を勧請した際に同行する役儀の神官がいたで
あろうことは間違いありません。

その『古社記』が伝えるところによれば、鹿島から神が奈良に到着された時に、
時風・秀行が自らの住むところを伺ったところ、神が手に持った榊を投げ、
その落ちたところに住めとの託宣があり、それが平城左京八条二坊五坪の艮の角、
現在の杏町であったと伝えています。

 

春日から直線で約5キロとそんなに遠くまで飛ぶわけがないと言った理屈はさておいて、
少なくとも平安時代には、神社から相当離れた土地に住んでいたことは事実です。

このことは、古代の神職は非常勤であったことを示唆します。

私は随行してきた中臣氏の身分が、さほど高くなかった表れではないかと考えます。

 

平城京において身分の高い貴族ほど、平城宮に近い場所に居宅を構え、
下級役人ほど遠く離れた場所であったことはよく知られています。

 

鹿島郡に少なくとも7世紀には中臣氏が存在し、神宮司と郡司職を兼ね地域支配をしており、
しかも中央の中臣氏との関係があったことは、私の卒論でも考察したところです。

 

そこから、中央の中臣氏が仏教導入を巡る争いで失脚し、
中臣宗家の交代があったのではないかと考えましたが、
この時鹿島から随行してきた中臣氏が、その居住地として、
宮から遠く離れた場所を与えられた事実は、都において鹿島の中臣氏の地位が
さほど高くなかったとも考えられ、この仮説も見直す必要があるかもしれません。

余談はさておき、鎌倉時代以降に、神主大中臣氏が野田郷に定住し、
正預中臣氏が高畑郷に移住したのにちなみ、
神主方を北郷。正預方を南郷と通称するようになり、
近世にはいると南郷に混在して北郷の社家も高畑に住むようになりました。

辰市・大東家は春日本社に最も近い下の禰宜道(現ささやきの小道)の入り口あたり、
千鳥家は若宮に近い上の禰宜道の入り口に位置し、その分家や禰宜家の多くも
そのあたりに移住し、社家町が形成されていきました。

明治の官社化によりその職を追われた多くの社家が、高畑を離れましたが、

 

千鳥家は現在も昔のままの場所にとどまり、大東家は場所は少し移動しましたが、
やはり高畑にその居宅があります。

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自己紹介:
奈良市にあった喫茶店『可否茶座 アカダマ』の元マスター.2013年奈良大学通信学部文化財歴史学科を卒業。奈良まほろばソムリエ検定第1期ソムリエ取得。第1回小倉百人一首検定1級合格。
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