忍者ブログ
アカダマブログ
[1]  [2]  [3]  [4]  [5]  [6

高畑の伝説の最後に、悲劇の皇女の話があります。


 
  比賣塚は古くから「高貴の姫君の墓」と語り伝えられていました。

1920年代には、比賣塚は国有となっていましたが、地元の有志の奔走によって奈良財務局から払い下げを受け、比賣塚の現形9坪を新薬師寺に寄進し、そこに神社を造営して神殿・祭祀を鏡神社の摂社として委任することとなりました。

1981年に十市皇女の命日である47日を新暦に換算した日である510日に鎮座奉祝祭が行われ、十市皇女を祀る比賣神社が誕生しました。


ただこの比賣塚には、もう一人藤原鎌足の娘で天武天皇の夫人で但馬皇女を生み、天武11年正月没した氷上夫人も祀られている可能性があります。

藤原夫人また大原大刀自と呼ばれるの鎌足の娘の五百重娘は、新田部皇子を生み、妹と考えられますが、その藤原夫人に賜う御歌一首として万葉集に次の歌があります。

わが里に 大雪降れり 大原の 古りにし里に 降らまくは後(のち)」(万葉集巻二・103.104

藤原夫人、和へ奉る歌一首

「わが岡の(おかみ)に言ひて落らしめし雪の(くだ)けし其處に散りけむ

と飛鳥の里に降った雪をめぐるユーモアに富んだ相聞歌を載せています

 

万葉集の最後に近い巻20巻に藤原夫人として次の歌があります。

万葉集巻二十 4479 藤原夫人の歌一首

(浄御原の宮に天の下知らしめしし天皇の夫人なり。字を氷上大刀自といへり)

 朝夕(あさよひ)()のみし泣けば(やき)太刀(たち)()(ごころ)(あれ)は思ひかねつも

  (朝に晩に、泣いてばかりいるので、しっかりした心をとうてい持っていることができません)

同じ姉妹でありながら、歌の明るさには雲泥の差があり、氷上皇女が、どういう境遇であったのか詳しいことはわかりませんが、二人の姉妹の対照的な悲劇性が浮き彫りになっているように感じられます。

現在上高畑町には式内社赤穂神社があります。

古老の話しでは
「昔は赤穂神社をアカボさんと呼んでいる。
昔はもっと地所が広かったが、だんだん削られて狭くなってしまった。
皇族のお姫さんを葬ってある所と言うて、誰もさわるものがなかった。と言うことである。

現在は鏡神社の別社となっていますが、延喜式に記され、また東大寺お水取りの神名帳でも、その名が読みあげられる古社で、元の社地は数百余坪あり、桜の木が多く植えられ辺りは桜田の地名もあったと言います。

大和志料でも赤穂神社と擬しており、延享四年の石灯籠がある。赤部社とする記録もある。


 

十市皇女は鏡王のむすめとされる額田姫王と天武の間にもうけた皇女で、彼女は父に命ぜられるまま、いとこにあたる大友のもとに嫁ぎ、壬申の乱で父に大友を殺された後は失意の日々を送り、678(天武七年四月)宮中において急死をとげたので、自殺ではないかと思われます。

運命にもて遊ばれた薄幸の佳人というイメージが鮮烈であり、やはり悲劇の皇女のイメージがあります。

日本書紀天武紀の記事

天武7年夏4月・・・・斎宮に幸さむとして卜う。・・・平坦の時をとりて警蹕既に動きぬ。百寮列をなし、乗輿蓋命して、、以て未だ出行しますに至らざるに、十市皇女、卒然に病發りて、宮中に薨せぬ。

此れに由りて(ミユキ)簿既に停マリテ、幸行すこと得ず。新宮の西廰の柱に霹靂す。・・・・・十市皇女を赤穂に葬る。

天武天皇の行列が出発しようとしたまさにその時、突然

十市皇女が亡くなったという、不思議な死を伝え、その亡骸を赤穂に葬ったと書かれています。
 

天武11年春、壬子に、氷上夫人、宮中に薨せましぬ。癸丑(19日)地動。辛酉(27日)に氷上夫人を赤穂に祀る。

いずれの皇女も突然宮中において亡くなり,天地に異変が起こっていること、さらに、お二人が赤穂の地に葬されたと書かれています。

 

 

ゴリョウ塚

イガミ御霊さん
不空院の住職談

不空院の巽の隅にゴリョウ塚と言うのがあり、

貴いお姫さんの塚であると伝えている。
どなたの事なのかはわからぬ。

女人守護のご利益のある塚である。

社家の千鳥氏の話しでは。
この辺は、以前は井上村と言い、イネンド(井上堂)と言う祈禱所のあったことが、千鳥家の古図にある。
高野山の丹生都比賣神社の近くに、猪上(イガミ)の社と言うのがある。

この井上堂はイガミさんで、井上内親王を祀ったのがこのゴリョウ塚でなかろうか。

鏡神社の末社の天神さんも、管公さんではなく、家の記録には井上内親王のお子さんの若宮火雷天神(井上内親王の子)だとある。

このゴリョウ塚はイガミさんに違いない。
若宮火雷天神

ゴリョウ塚は春日社の社家中西家が代々守護神として大切にしてこられた。
井上内親王は霊亀三年〈717〉に聖武天皇の長女として生まれ、母は県犬飼広刀自。養老五年(721)五歳の時、伊勢の斎宮に選ばれ神亀四年〈727〉に伊勢に下向。17年後、天平16744)弟の安積親王が薨じると共に任を解かれ退下し、白壁王の妃となる。

宝亀元年(770)称徳天皇の崩御によって白壁王が即位して光仁天皇となり井上内親王は皇后となり、他戸親王が皇太子となるも、宝亀三年に天皇を呪詛したとして皇后を廃され他長戸親王も廃太子となり、翌年には親子とも大和国宇智郡に幽閉され、翌年宝亀6427日、二人は同じ日に薨去する。以降天変地異が続き井上内親王と他戸親王の怨霊の仕業であると恐れられた。

墓は五條市に延暦19年〈800〉に桓武天皇によって皇后の地位が回復され墓も御陵と改められた。

同じ聖武天皇の娘でありながら、かたや天皇となり、母親の差により、幼くして斎宮に出され、下向後は、格下の、しかも30歳近い年上の58歳の白壁王をあてがわれ、運命のいたずらによって皇后となるも、最後は悲劇の死を迎えた井上内親王もまさに悲劇の皇女です。

井上内親王を祭神として祀る御霊神社は数多く、奈良市内では現在は薬師堂町にありますが、元は、元興寺南大門前の井上町にあり、南側一帯は井上郷と呼ばれ、一時井上内親王と他戸親王が篭居されていたといいます。亡くなった地である五条市竜安寺町の御霊神社は御霊本宮と呼ばれています。

千鳥氏は,鏡神社に祀られている天神社は、井上内親王のお子さんの若宮火雷天神(井上内親王の子)だと言う。

伝説では宇智郡に配流された時、井上内親王は身籠っており、産まれたのが火雷神(ほのいかずちのかみ)であり、内親王の御子であるから若宮と呼ばれ、御霊本宮の丹生川の対岸にある火雷神社に祀られています。

このように、井上内親王を始めとして、十市皇女、氷上娘と、いずれも悲劇の皇女であり、赤穂の地が高畑であるとすれば、悲劇の皇女の葬送の地が、飛鳥時代から何故か高畑であることになります。

高畑には赤穂神社があり、媛塚があり、ゴリョウ塚が伝えられています。

まだまだ高畑には分からないことが多く残されており、これからも調べていきたいと思っています。

 

PR



高畑の伝承について見てきましたが、頭塔について、もう少し詳しく詳しく書いておきます。

頭塔については、2001年に奈良文化財研究所より史跡頭塔発掘調査報告書第62号で非常に詳しく書かれていますので、興味ある方は是非一読されたら良いと思います。

以下は、そこからの抜粋です。

 頭塔の創建については神護景雲元年(767)に東大寺僧実忠によって

完成したことは、ほぼ間違いありません。

発掘調査によって頭塔の造営は上層、下層の塔が明らかになり、少なくとも2段階の造営過程があったことがわかりました。

造営開始の上限については天平勝宝8年(756)に描かれた東大寺山堺四至図に記されていないことから、造営開始時期はこれ以降と考えられます。

そこで正倉院文書天平宝字4年(760)造南寺所解の記事

「東大寺南朱雀路壊平為鬼霊奉写・・・」

(東大寺南の朱雀路にあたる墓を壊すにあたって、その墓の鬼霊の供養のため写経料物を申請するための解)

これが、頭塔造営のための工事に伴うものである可能性が高く、恐らく頭塔下層の工事の始まりを指すと考えています。

 

事実、頭塔の下には、いくつかの古墳が見つかっています。

それらは、春日野に分布する春日山古墳群の中に含まれ、春日山古墳の般的な古墳群とは線を画した上位階層の墳墓であり、6世紀においてはもっとも由緒のある伝統勢力として君臨していた族の墳墓であったと思われ、あえて氏族を比定するならば、古墳の造営時期にほぼ該当する敏達朝頃に春日氏から大宅粟田小野柿本などの諸氏が分枝し、古市地区の護国神社古墳群を大宅氏の、そして頭塔下古墳を春日氏族の墳墓として考えることができるとしています。

発掘調査からは、この時期に造営された下層頭塔の塔身は破壊され、全く異なった姿の上層頭塔に作り替えられたことが分かっています。

理由としては下層の構造がかなり不具合をはらんでいて、石積が崩壊するなど改造せざるえなくなったことと、時期的に、皇太后の病気平癒と恵美押勝乱後の国家安泰の為などが考えられます。

その後奈良時代の末に相輪部分が焼失し、9世紀に相輪に代わって六角屋蓋を持つ石塔が頂部に立つなどの再整備が行われたが、次第に荒廃していったと思われます。

それでは、何故この位置に頭塔が建てられたかという問題は、天平宝字年間に東大寺が南方に寺域を拡大しようとした寺域拡大事業の中核的な事業であった可能性が指摘されています。

立地は、春日山の東麓から西へ延びる台地上の西端に位置し、四条大路の延長上にほぼ一致し、東大寺の中軸よりは若干西に振れることによって、平城京の街から構築物を最大限効果的に見せる場所にあると言えます。

所謂玄昉の首塚伝説に触れておきます。

玄昉の略歴を簡単に書いておきますが、吉備真備と共に養老元年(717)に入唐。

天平7年(735)に多くの仏像経典を携えて帰国。

帰国後は真備と共に、藤原4兄弟の死によって人材不足に陥っていた橘諸兄政権に重用されます。

このことで、広嗣の反感を買い、天平17年(745)には筑前観世音寺に左遷され、その翌年に死去します。

ここから真備と玄昉を排除すべく反乱を起こし鎮圧された広嗣の霊に害され

五体がばらばらに飛び散ったと言った様々な伝説が生まれます。

玄昉の首が落ちた場所については諸説ありますが、いずれも興福寺内であることでは一致しています。

玄昉と興福寺の関係は、玄昉が唐より持ち帰った経典のことごとくが、興福寺に収められたことから生じたと考えられます。

興福寺菩提院は『七大寺巡礼私記』によれば、玄昉の住んだ院であるとされていますが、実際は平安中期以降に玄昉の菩提を弔うため建立された院であろうと考えられています。

平安時代末には頭塔が実忠が造った土塔であることは忘れ去られており、玄昉の頭を埋葬した墓であるという認識が一般化していたようで、さらに『七大寺巡礼私記』によれば、頭塔の周囲はすでに荒廃し、東大寺の施設としては廃絶しており、興福寺関連の施設として認識されており、興福寺がこの地域に支配を拡大していたことが示されています。

興福寺菩提院は10世紀から11世紀初頭が拡大の画期であり、玄昉止住の院家としての創建伝承を持ち、頭塔が玄昉の墓である伝承を頭塔を自らに取り込む根拠とし、これを供養することで玄昉止住以来の法脈を相承する院家であることを主張したと考えられます。

室町時代には頭塔周辺の地域は頭塔郷と称されました。

18世紀になると頭塔は興福寺賢聖院の管理下になり、『奈良坊目拙解』では

小規模な堂舎があったとされます。ところが享保15年(1730)に頭塔は日蓮宗常徳寺に譲渡され末寺となり頭塔寺と称されます。発掘調査では頭塔南面にこの当時の五輪塔や、墓石が確認されています。

南側から見た頭塔。こちら側に頭塔寺がありました。

近世では頭塔が玄昉の墓であるという伝説は広く流布しており、
玄昉の肘を埋めた肘塚、眉と目を埋めたとされる眉目塚、
胴を埋めたとされる胴塚などの伝承がありますが、
『奈良坊目拙解』でもこれらは証拠もなく信用に足りない、
後世に起こった説であろうと述べています。
中世の表記を見ると肘塚は甲斐塚、貝塚であり、眉目は大豆(まめ)が本来であり、頭塔の伝承に合わせて作られたものと思われます。

以上発掘調査報告書に基づく客観的な頭塔の評価ですが、
ここからは私のいわば妄想です。

頭塔の南にあったとされる清水寺は、これも『奈良坊目拙解』によれば玄昉が開基とされ、玄昉が太宰府に左遷された時に、弟子の報恩に譲られ、後に玄昉が非業の死を遂げた時、その骨を持って帰って頭塔に収めたとあり、この報恩の弟子延鎮が山城の八坂に清水寺を建てたが、清水(しみず)に憚って(きよみず)寺としたと言います。

さらにその清水寺の鎮守社が鏡神社です。この鏡神社は広嗣の亡霊の祟りを治めた吉備真備が、佐賀唐津の鏡山に広嗣を祀った神社を奈良に移したもので、ここにも高畑の鏡神社・藤原広嗣そして玄昉と吉備真備が関わります.

 

造東大寺司長官であった吉備真備が、建設した南寺が、
 盟友であった玄昉のために、創建に力を貸した清水寺で、
 
それが後世、頭塔玄昉の墓説に結び付いたのではないかと妄想しています。

玄昉が没したのは天平18年(746)。吉備真備が太宰府にあったのは、
 752~754年で、同年造東大寺長官。

760年に正倉院文書南寺所解。767年に頭塔を造る。

時期的には矛盾はありません。

ただ清水寺に関しては一切資料がなく、遺構も確認されておらず
 これからの研究課題です。

 

  今回のテーマは「幕末の奈良奉行と陵墓」

川路聖謨は弘化3年(1846)から嘉永4(1851)年まで5年間奈良奉行を勤めましたが、その間に川路の呼びかけにより、桜と楓の苗木数千本株を東大寺から興福寺を中心に植樹し、また乱伐によってはげ山となっていた多聞城跡に50万本を植樹、佐保川堤にも桜を植樹しました。

その桜は、今も春になれば見事な櫻並木を呈し、川路さくらと呼ばれています。

これらの事業を記念する石碑が、猿沢池近くの52段を上がったところに「植桜楓之碑」として建てられており、碑文は川路の自筆だと言われています。

川路は奈良奉行、大阪奉行を歴任したのち、幕末には勘定奉行兼海防掛として外交に携わり、日露交渉で応接したでロシア側は、川路の人柄に魅せられ、この時、プチャーチンに随行していたイワン・ゴンチャロフは、その印象を、つぎのように書いています。

「川路を私達は、みな気に入っていた。川路は非常に聡明であった。

彼は私たちを反駁する巧妙な弁論をもって知性を閃かせたものの、それでもこの人を尊敬しないわけにはゆかなかった。

彼の一言一句、一瞥、それに物腰までが、すべて良識と、機知と、炯眼(けいがん)と、練達を顕していた。明知はどこへ行っても同じである。」

プチャーチンは帰国後に「日本の川路という官僚は、ヨーロッパでも珍しいほどのウィットと知性を備えた人物であった」と書いている。

そんな川路聖謨が奈良に残した多くの事績の中で、陵墓の改修事業についてが、今回のアカダマ会のテーマでした。

奈良奉行に着任後、大和一国を巡検し、前々の奉行は多くは遠見するだけであった御陵も具に見て回りました。

そして山稜の荒廃を嘆き、「申すも恐れ多き事」「勅使あるとも聞こえずただ夏草のうちにあるなり」

「駕籠の中から畏れ緒多くも見奉りるばかりなり」「いにしえの御陵とおもうふも多けれども知る人なし」「落涙に及び地に伏して拝し奉りたり」と日記に記し、嘉永2年(1849)には『神武御陵考』を執筆。

江戸時代を通じて初めて、山陵の盗掘犯を捕縛し、山陵の取り扱いが粗末にならぬよう指示し。

嘉永4年には大坂町奉行への転任がありましたが、後任に、勘定吟味役

佐々木循輔(顕発、あきのり)を奈良奉行に推薦します。「徳川十五代史」

佐々木の前職は勘定吟味役であり、同人は下級の御徒の出で、幕府出仕から二十七年目にして諸大夫・芙蓉之間詰の奉行に抜擢されたので、「江戸中の上下、目を驚かすことにて… よるもさわるも、佐々木とてうらやみおもう」ほどの話題をさらう。

川路聖謨の日記「同人はわが目出したる人にて、其の上、此の人ならば、

奈良よく治まるべし」こうして、その後文久3年から慶応元年までその間、 。幕末の動乱を挟みながらも、山陵百か所以上の修復に取り掛かります。

例を挙げれば、その当時、その所在もわからなくなっていた神武天皇陵を調査の結果文久3〈1863〉年2月17日、ミサンザイに決定し修復に取り掛かります。尾張黒鍬およそ600人、近在から人足300人ばかりを動員し、石垣で基礎固めをして土手と周濠を巡らし、南に拝所、外周に柵を取り付けます。

さらに、念仏寺(山の寺)の西方にあった油阪、今辻子、林小路町の市街地に囲まれ、周囲は墓地、念仏寺の経蔵畑に取り囲まれた念仏寺山・弘法山の丘の最高所にある一間四方の小山を中心とし文久4年今辻子町の町屋収容、西照寺墓地、東照宮、客殿、愛宕堂を移転、「排除されるべき汚らしき町人の墓地を除き、「御陵きわまりたり」と陵墓の聖地化はかり「前方後円形」山陵の造営を行います。

また行燈山の周濠に水をため農業用水として利用、この水は明治の干ばつに役立ち、専行院に「修陵餘潤之碑」を残します。

  こうして数々の功績を奈良に残した川路聖謨でしたが、1868年江戸開城の翌日(3月15日)病床にあった川路はピストル自殺を遂げています。

以上、今回のアカダマ会の内容ですが、講師の森下氏の話しは、幅広くなかなか、まとめきれません。

余談ですが、私が小学校以来、文房具を買い求めていた文房具屋さんが、この川路の下で与力を勤めていた中条良蔵の家が、明治維新以来士族を捨て開業した店であったことを初めて知りました。

 


  
日本の古代に政権交代があったとする学説「河内政権論」で知られる歴史学者で大阪市立大名誉教授の直木孝次郎(なおき・こうじろう)さんが2月2日午前1時27分、老衰のため奈良市の病院でご逝去されました。100歳だった。
歴史学者の直木孝次郎さん

    歴史学者の直木孝次郎さん

神戸市で代々続く米穀商の家に生まれた。1943年9月、京都帝国大文学部を繰り上げ卒業し、海軍に入隊。山口県内で終戦を迎えた。大阪市立大助教授などを経て66年から81年まで同大学教授を務めた。

同大学在籍中、4世紀末の河内平野に登場した巨大古墳は、河内勢力がそれまでの大和の豪族主体の政権に取って代わった表れとする「河内政権論」を提唱。戦前からの「同一系統」説派と論争を巻き起こした。大阪の難波宮の遺跡保存にも尽力した。

著書に「日本古代国家の構造」「日本古代の氏族と天皇」など。87年の宮中歌会始で召人(めしうど)を務めた。

アカダマには、私の父の代よりご夫婦とも度々来店いただきました。
最近も、お元気だと伺っており、まだまだ、教えていただきたいことが
いっぱいあったのですが残念です。
ご冥福をお祈りいたします。

 

平成14年から15年にかけて実施された学術調査によっても
明らかにされたように、6世紀の古墳である吉備塚が何故、
奈良時代の学者・政治家として有名な吉備真備の墓と伝えられているのか、
南都陰陽師の家系で奈良暦を明治以前まで発行していた中尾家の方の
話がその手掛かりになりそうです。

「御先祖の吉備大臣を、お祀りしてあるのが吉備塚です。
10月2日の御命日にはお参りします。
私の家のお位牌には吉備ではなく、賀茂と書いてございます。」

吉備大臣の子孫と称した南都陰陽師の幸徳井家が吉備塚のあたりに
住いしていたことは「奈良坊目拙解」幸之上町の条にも記載があります。
「往昔、陰陽博士幸徳井氏族〈賀茂氏、吉備大臣の末孫なり)此の所に住居して、
今に古井当町家の人家裏に在り。
幸徳井と号す。是則ち居地の遺跡なり。
仍て幸徳井町と名づく。其後、字音を省略し、訓を転じて、幸井(サイハヒ)町
と号く。」
 現在、教育大の前の通りを隔てたあたりを、幸町と称しますが、
この名前の由来が陰陽師である幸徳井家に由来するとのこと。
陰陽師の賀茂氏が吉備大臣の末裔である旨の伝承が語られています。
江戸時代宝永年間に記された「大和名勝志」には
平城京四個陰陽家として、
 滋野家、阿倍家、橘家、吉備家をあげ、その吉備家を
 「吉備朝臣家後改賀茂朝臣」と記しています。
幸徳井家については、15世紀頃賀茂友と言う人物を初代とし、
その友幸は明徳2年(1391)に安倍友氏の息子として生まれ、
応永26年(1419)に賀茂家の養子となり幸徳井家の初代となった。
と伝えています。
友幸は『大乗院寺社雑事記』に
「享徳3年(1453)9月
仰付従3位友幸荒神供沙汰了」とあり実在の人物です。
幸徳井家は陰陽師として活動初は連綿と続き、
明治3年のおん祭りにも
「幸徳井従4位清祓す。」と記載があります。
その住居については当初、吉備塚の北邊とありましたが、
『奈良坊目拙解』で
幸徳井累世干當郷吉備塚北邊乎、其後移居ヲ於野田村山上
とあり、幸町から野田へ移り住んだようであり、幕末の古図にも
野田の春日社家北郷の一角にその名前が見えます。
 上記の中尾家のある陰陽町には、先述の『奈良坊目拙解』
當所陰陽師賀茂氏苗裔ニシテ而舊年在於吉備塚邊幸町ニ、
其後令離散、居移 今地ニ云々。
とあり、幸町の吉備塚周辺に住んでいた賀茂氏を祖先とする人たちが
陰陽町に移り住んだとあります。
中尾家は陰陽師として、南都暦の作成に、明治に至るまで関わっていました。
このように、当初吉備塚の北辺りに、陰陽師の賀茂氏の住まいがあり
吉備塚を祖先としてお祀りしていたことは分かります.

 
その吉備塚をお祀りしていた様子が、「奈良名所絵巻」に、
烏帽子に浄衣を着た陰陽師が、御幣を立て祈念している様子描かれており
奈良市史にもその写真が掲載されています。
 
その場所について、連隊勤務のk氏より聞き取った次の話し。
「塚の南側に小さな灯篭(3尺ほど)が立っていた。
4尺4方の方形の石の台があり、3層の石壇で、仏教式のものでなく、
珍しい灯籠だった」これが恐らく、
陰陽師が吉備塚を拝礼する場所であったと思われます。
以上のように、吉備塚を陰陽師達が祖神としてお祀りし、
吉備塚に関する数々の伝説も、陰陽師によって、流布されたと考えて
間違いは、ないと思います。
では何故、吉備真備が陰陽師の祖として崇められたのかについては、
推察するしかありませんが、真備が唐より持ち帰った大量の書籍の中には
当然後の陰陽道に通ずるものが、含まれていたであろうことは想像でき、
さらには、真備に関する数々の伝説が真備の神格化に寄与したものと考えられます。
平安時代、小野篁の、不思議な伝説、真備の伝説も、遣唐使という、
帰還することが困難な使命を2度も奇跡的に無事に果たした真備に
神格性を見た庶民の感覚であろうかと思われます。
平安時代末期に書かれた今昔物語にも
「吉備真備は陰陽の術を極めたる人云々・・」
と書かれており、その頃には既に、吉備真備と陰陽道のかかわりについて
共通認識があったことを伺わせます。
  
以上吉備塚と陰陽師の関係については、ある程度裏付けがありますが、
それが何時まで遡れるか、今のところ江戸時代以前については不明です。
ただ、この高畑の地に吉備塚、それに関連して、清明塚、更には、広嗣を祀る
鏡神社、玄昉の首塚の伝説がある頭塔があることは、
決して偶然とは思えず、さらなる調査が必要です。
カレンダー
04 2019/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
フリーエリア
最新コメント
[01/29 やまもと]
[09/24 千鳥祐宣]
[08/25 yoshiki772@gmail.com]
[01/24 千鳥祐宣]
[05/07 鴨媛]
最新トラックバック
プロフィール
HN:
マスター
性別:
男性
趣味:
歴史
自己紹介:
奈良市にあった喫茶店『可否茶座 アカダマ』の元マスター.
バーコード
ブログ内検索
カウンター
カウンター
アクセス解析
アクセス解析
Copyright © akadama All Rights Reserved.
Powered by NinjaBlog
Graphics by 写真素材Kun * Material by Gingham * Template by Kaie
忍者ブログ [PR]