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春日大社のことを調べている中で、社家についても興味が出てきて調べていくと
 今度は社家町としての高畑について調べる必要が出てきました。
 そこで高畑の歴史について調べていくと、今度は新薬師寺について調べる必要ができ、
いわば芋ずる式に次から次へと調べる範囲が増えていきます。

高畑と新薬師寺については江戸時代享保20年(1735)に書かれた『奈良坊目拙解』に
下高畑町の項で、高畑町のあたりは元、新薬師寺大伽藍の敷地であったが、
堂廟僧房が退廃して高貴な寺が田畑に転じた故、この辺りを高畑と称するとあります。

要するに高畑あたり一帯は上古新薬師寺の伽藍境内であったと伝えています。
正倉院に伝わる『東大寺山堺四至図』に東大寺の羂索道のほぼ真南に
単層七間の堂が描かれ「新薬師寺堂」と注記されています。

このことから、あたりの地名が本薬師町と言われることもあり
今の教育大あたりに新薬師寺の金堂があったことは推定されていましたが、
2008(平成20)
年になって、「東大寺山堺四至図」に描かれた横長の巨大な金堂跡と思われる遺構が 奈良教育大の敷地内から発掘され評判になったのは記憶に新しい出来事です。
その新薬師寺ですが、正史には創建の記事はありません。
時代は下がりますが、12世紀初めに編纂された東大寺要録天平19年
「仁聖皇后、天皇の不豫に縁りて、新薬師寺を立て、幷に7仏薬師像を
造る」と出てくるのが初めての記録です。
ただその後の天平20年の正倉院文書には新薬師寺にて薬師経疏を
講じたという記事があり、その時、新薬師寺が存在していたことは
間違いありません。
同じく東大寺要録に「新薬師寺、亦香薬師寺と名付く、仏殿9間。
7仏浄土7躰あり」

とあって、新薬師寺は香薬師寺とも呼ばれていたことが分かります。

さらに新薬師寺に関係する記事をたどっていくと新薬師寺は
香薬師寺のほかに、香山薬師寺とも記され香薬師、香山薬師寺、
香薬師寺と記されたものもあり、これらはすべて新薬師寺の別称であると
思われますが、『正倉院文章』にはこれらの他に「香山寺」という
寺名がでてくる話があり話がややこしくなります。
『延暦僧録』の「仁政皇后菩薩」伝には

「皇后また香山寺金堂を造る。仏事荘厳具足す。
東西桜榭帯に彫り、左右危観虚敞たり。雅麗名づけ難し。
皇后また香薬師寺9間仏殿を造る。」
とあり、これによれば光明皇后が香山寺と香薬寺の両方を造ったとあります。

先に出てきた東大寺山堺四至図には、新薬師寺と香山堂が両方描かれています。
どうやら香山薬師寺と香山寺は別であると考えられますが、

正倉院文書には、天平勝宝5年に香山寺で薬師悔過が行われたらしいこと。
天平宝字2年には東大寺写経所が香山寺から薬師経80巻借用したことが伝えられており、両寺とも薬師信仰の寺であり、薬師を本尊とすることから香山寺を新薬師寺の別称であるという説があり論争は未だ止んでいません。
香山寺の本格的な発掘調査は行われていませんが、昭和41年には文化財研究所
が簡単な調査を行い瓦が数点発見されており、平城京の瓦と同じ時代のものと推定されています。

建物に関しても、相当規模の建物が少なくとも4棟以上はあったと推定しています。
平安時代に入っても香山寺は正史にも登場し『三代実録』元慶4年(880)の記事にその名前が見えます。ただ10世紀末を境に記録は途絶えおそらく倒壊するなどの事情で廃絶したと考えられます。
その後中世から近世にかけてこの地は高山竜王社を中心に祈雨、止雨を祈る霊地として信仰されるようになり、香山寺の記憶は失われてしまいますが、ただ地名の高山は
香山が転訛したものと考えられます。
 以上長々と書きてきましたが、要するに新薬師寺とは別に同じ薬師の寺として
 新薬師寺より早く、香山寺が存在していたこと。
果たしてその香山寺が新薬師寺の前身といえるのか?
尚、最近になって失われていた手首の先が発見されて評判となった香薬師像が
この香山寺の本尊であったのか?
香山寺に関しては未だわからないことが多くあります。
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法華寺に祀られている維摩居士像が新たに国宝に指定されたとのことです。
 11日にソムリエアカダマ会の例会がありましたが、そのテーマは春日大社。

内容についてはまた後日書きたいと思いますが、実はこの維摩居士像は
その春日大社にかかわりの深い藤原不比等の姿を映したものという説もあり
  鎌足から不比等そして光明皇后へと藤原氏の中で代々受け継がれてきた
 藤原氏にとって大切な維摩会を行うにあたっての重要な像です。

従来この像は木心乾漆像と考えられていましたが、イタリアで行われた
「日本仏像展」に出品するため改めて調査を行ったところ、
造立方法が木造と訂正され、結果制作年代が8世紀後半と訂正されました。

維摩会については『今昔物語』で次のような由来が記されています。

昔鎌足が長い病に臥せっていた時、百済の尼僧にその病気を治すには
維摩居士の像を作ってその前で維摩経を読めばよいと教えられました。
鎌足は早速屋敷にお堂を立て維摩居士像を祀りその尼僧を講師として
門失品の講義をしたところたちまち、病が回復したとのことです。

翌年から毎年維摩会を行い鎌足の死後も続けられていましたが、
やがて年月とともに維摩会が行われなくなっていましたが、
不比等が手の病にかかったとき,親の代の行っていたその法会を怠った祟り
とわかり、山階の陶原の家で維摩会を再興しそれ以来場所は
奈良に移った山階寺と呼ばれる興福寺で承和元年(834)から続けられているとあります。
ただし『扶桑略記』では延暦21年(802)10月の条に
「維摩会は本のごとく興福寺にて行い、永く移転世ざれ」という記事があり、
ずれがあります。
維摩会が興福寺で行われたという点では『続日本記』天平宝字元年(757)閏8月7日
藤原仲麻呂の上表文に記載があり、確実なものです。
また一方「興福寺縁起」には維摩会養老4年(720)年に不比等が死んでから
しばらくおろそかにされていたが天平5年(733)に
光明皇后によって再興されたとあります。
その場所はおそらく皇后宮のおかれた法華寺と考えられます。
皇后宮から興福寺へとその行われる場所が変わったわけですがその時期については
はっきりわかりませんが仲麻呂の上表文によって天平宝字元年(757)には
興福寺で行われていたことは確実です。

12c末に書かれた『健久御巡礼記』の法華寺の条に
「維摩会は法華寺の金堂で行われていたが、
場所が狭いとのことで興福寺に移し行われるようになった。
その後維摩像は当初西向きに据えられていたが興福寺のある
辰巳(東南)の方に向いて興福寺を恋たまえり。
あわれなることなり」とあります。

鎌足の命日に合わせ行われる維摩会は氏寺たる興福寺で行われるのは当然としても、
この維摩像が何故法華寺に取り残されたのかは謎です。

想像をたくましくすれば、父聖武天皇、母光明皇后をなくし、
信頼していた仲麻呂も失った孝謙女帝が、祖父不比等を映したといわれる
この維摩像を手元に置き心のよすがにしていたのかもしれません。

晩年の孝謙天皇は女官の由利只一人を、手元に置き、他のものを一切寄せ付けず
法華寺に籠っていたと言われています。


標記のシンポジウムが東向きの日本聖公会奈良基督協会で行われました。


参加者は自治会長や町づくりに関わる団体の関係者とのことで150名ほど。
何人か知った人を見かけました。
 
 

この教会は外観は和瓦葺内部には吉野さんの檜を使った数寄屋風の建物で、
2015年には創立100周年を記念して立派なパイプオルガンも
設置されています。
この礼拝堂は国の重要文化財にも指定されているものです。
実は私の生まれ育ったのはこの教会の真向かい。
昭和3年創業の薬局でした。
ですからこの教会の前庭は私の子供の頃の遊び場でもありました。

こうした由緒ある場所を会場にして今回のシンポジウムが開催されましたが
正直内容には不満足で市側と各種町づくり団体、自治会と分科会を作り
協議したとありますが如何にに奈良市が景観保存に、
街並みの活用に取り組んできたか、市側の自己宣伝に終始した感があります。
 内容は良いことだと思いますが、やや消化不良の内容でした。
今後の成果に注目したいと思います。

 
A級は昨年A級のみで単独に開催されていますので、

今回はB級以下の部の大会です。
A級は4段以上。B級は2、3段。C級は初段。D級は初段を目指すもの。
E級は小学生以下を含む無段者の部と区別されています。
競技かるたはプロというものが存在しないので皆純粋に競技かるたを
愛好するもののみの大会です。
一応上位入団者には賞品とトロフィーは授与されますが、
参加者はそういったものが欲しくて参加するのではなく、
競技かるたを楽しむため、あるいは、より上位の段を得るために全国から
交通費も自腹で参加する訳ですから、今では珍しい本来のアマチュア競技の原点が
ここにあります。

開会前の受付風景です。
大げさでなく、老若男女いろんな人たちが全国から参加します。
ここ数年漫画「ちはやふる」のおかげで全国的に参加者が急増し
東京あたりでは収容しきれなく、定員制を敷く大会も出ています。
それというのも、勝ち抜き戦が基本ですから、あまりにも参加者が多いと
決勝戦まで7回戦8回戦ということとなり終了まで時間がかかるため
会場の都合もあり、また遠方の参加者では帰りの交通手段がなくなるといった
事態も起こるからです。
奈良大会も最近は500名を超える参加者が押し寄せます。
私がやっていたころは、せいぜい200名。
なかなか増えないかるた愛好者の数を嘆いていたのがうそのようです。

受付が終わると開会式。
今年は秋に国民文化祭が奈良で開催され、かるた競技も10月にその一環で
橿原市で開催されるため、橿原市のキャラクターさららちゃんも応援に駆けつけてくれました。
さららの名前は持統天皇のうののさららからつけられたとかで、
百人一首にも持統天皇の歌がありぴったりのキャラクターです。

子供たちにとりかこまれるさららちゃん。


開会式にも参加です。
 

各クラスに分かれていよいよ競技開始。
最初に15分間の暗記時間があり、
ここで並べた札の配置を完全に頭の中にインプットします。
競技が始まると進行と共に札の配置も数も変わっていきますから
暗記と前の配置記憶の消去、さらには読まれた札を頭の中で整理しながらと言った作業を
絶え間なく試合中頭の中で繰り返します。
そして後は反射神経。
更には試合1時間強、勝ち進めば数時間にも及ぶ体力と気力
そして集中力の戦いです。
試合中は観覧者も物音を立てるのも、咳をするのも気を使って
試合の邪魔をしないようにしなければいけません。
こういったところがとても見せる試合といかないところです。

今日も決勝までは6試合。9時半にスタートして終了は7時ごろの長丁場です。
春日大社の「いのちと心の講座」に行ってきました。
今回は標記の講演が行われました。
講師は天理大学の幡鎌一弘氏。
 

中臣祐範とは春日社家の東地井祐範のことで、東地井はトチイと読みます。
このブログで何度も書いていますので詳しいことは省略しますが、
春日の社家は一般的な神社の社家という言葉と違って、鹿島からお供してきたと
言われる中臣殖栗連 時風・秀行の子孫だけを社家と言います。
この両家を春日では正預と称しますが、要するに藤原氏の氏の長者に代わって
春日社を預かっているという意味です。

そして鎌倉時代に若宮社が創設され若宮神主を務めた千鳥家。

そして、当初は春日祭に際して神祇官から勅使と共に派遣され
天皇の宣命を奏上する役儀であった中臣氏が常勤の神主となり
大中臣、後に中東家となったその三惣官だけが社家と呼ばれ
幕末では19家が数えられました。
整理すると

大中臣恒瀧が中東家の祖で、そこから奥、正真院、西、向井、中、奥田、中西
と言った社家が派生します。
そして当初春日参道から北側に位置する野田に住いしたことから北郷社家と呼ばれます。

中臣植栗連時風を祖とする辰市家。
 そこから千鳥家が分かれさらに、井戸、今西、南の各社家が産まれ。東地井家、北
 新、辰巳家が派生します。

中臣植栗連秀行を祖とする大東家から上、富田、大西家。
以上の19家が社家です。

辰市、大東家は高畑に住んだため南郷社家と呼ばれています。

明治維新以降辰市家は春日を離れ、大東家は先代まで春日に奉職していましたが、
現在は、春日には籍がなく、唯一千鳥家の当主のみが今なお春日に奉職しています。

今回の祐範記の著者は上記の辰市家から分かれた東地井家で、
14cの祐枝を家祖とし、祐範記は慶長4年に正預となり、天文11年(1542)から
元和9年(1623)死に至るまでの記録です。

というわけで、その間祐範が記した日記を読み解いたわけですが、
確かに興味深い話も散見しましたが、私にとっては残念ながら
あまり収穫のない内容でした。
祐範記の2巻はすでの今回の造替記念として発刊済みで残り1巻も夏頃には
発刊予定とのことです。
正直専門職というのはかくもこまごましたことを丁寧に読み解いていくのかと
感心すると同時に私にはとてもこれだけの根気はないと、つくづく思わされました。

中臣氏については、私の論文で言及していますが、未だ学会でも確論はありません。
私は鹿島の中臣本家とは格段のつながりはなく、いわば後から中臣一門に加わった
地方豪族と思っています。
このことについて書き出すときりがありませんので今回はここまでにしておきます。
 
 
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自己紹介:
奈良市にあった喫茶店『可否茶座 アカダマ』の元マスター.2013年奈良大学通信学部文化財歴史学科を卒業。奈良まほろばソムリエ検定第1期ソムリエ取得。第1回小倉百人一首検定1級合格。
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