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  今回のテーマは「幕末の奈良奉行と陵墓」

川路聖謨は弘化3年(1846)から嘉永4(1851)年まで5年間奈良奉行を勤めましたが、その間に川路の呼びかけにより、桜と楓の苗木数千本株を東大寺から興福寺を中心に植樹し、また乱伐によってはげ山となっていた多聞城跡に50万本を植樹、佐保川堤にも桜を植樹しました。

その桜は、今も春になれば見事な櫻並木を呈し、川路さくらと呼ばれています。

これらの事業を記念する石碑が、猿沢池近くの52段を上がったところに「植桜楓之碑」として建てられており、碑文は川路の自筆だと言われています。

川路は奈良奉行、大阪奉行を歴任したのち、幕末には勘定奉行兼海防掛として外交に携わり、日露交渉で応接したでロシア側は、川路の人柄に魅せられ、この時、プチャーチンに随行していたイワン・ゴンチャロフは、その印象を、つぎのように書いています。

「川路を私達は、みな気に入っていた。川路は非常に聡明であった。

彼は私たちを反駁する巧妙な弁論をもって知性を閃かせたものの、それでもこの人を尊敬しないわけにはゆかなかった。

彼の一言一句、一瞥、それに物腰までが、すべて良識と、機知と、炯眼(けいがん)と、練達を顕していた。明知はどこへ行っても同じである。」

プチャーチンは帰国後に「日本の川路という官僚は、ヨーロッパでも珍しいほどのウィットと知性を備えた人物であった」と書いている。

そんな川路聖謨が奈良に残した多くの事績の中で、陵墓の改修事業についてが、今回のアカダマ会のテーマでした。

奈良奉行に着任後、大和一国を巡検し、前々の奉行は多くは遠見するだけであった御陵も具に見て回りました。

そして山稜の荒廃を嘆き、「申すも恐れ多き事」「勅使あるとも聞こえずただ夏草のうちにあるなり」

「駕籠の中から畏れ緒多くも見奉りるばかりなり」「いにしえの御陵とおもうふも多けれども知る人なし」「落涙に及び地に伏して拝し奉りたり」と日記に記し、嘉永2年(1849)には『神武御陵考』を執筆。

江戸時代を通じて初めて、山陵の盗掘犯を捕縛し、山陵の取り扱いが粗末にならぬよう指示し。

嘉永4年には大坂町奉行への転任がありましたが、後任に、勘定吟味役

佐々木循輔(顕発、あきのり)を奈良奉行に推薦します。「徳川十五代史」

佐々木の前職は勘定吟味役であり、同人は下級の御徒の出で、幕府出仕から二十七年目にして諸大夫・芙蓉之間詰の奉行に抜擢されたので、「江戸中の上下、目を驚かすことにて… よるもさわるも、佐々木とてうらやみおもう」ほどの話題をさらう。

川路聖謨の日記「同人はわが目出したる人にて、其の上、此の人ならば、

奈良よく治まるべし」こうして、その後文久3年から慶応元年までその間、 。幕末の動乱を挟みながらも、山陵百か所以上の修復に取り掛かります。

例を挙げれば、その当時、その所在もわからなくなっていた神武天皇陵を調査の結果文久3〈1863〉年2月17日、ミサンザイに決定し修復に取り掛かります。尾張黒鍬およそ600人、近在から人足300人ばかりを動員し、石垣で基礎固めをして土手と周濠を巡らし、南に拝所、外周に柵を取り付けます。

さらに、念仏寺(山の寺)の西方にあった油阪、今辻子、林小路町の市街地に囲まれ、周囲は墓地、念仏寺の経蔵畑に取り囲まれた念仏寺山・弘法山の丘の最高所にある一間四方の小山を中心とし文久4年今辻子町の町屋収容、西照寺墓地、東照宮、客殿、愛宕堂を移転、「排除されるべき汚らしき町人の墓地を除き、「御陵きわまりたり」と陵墓の聖地化はかり「前方後円形」山陵の造営を行います。

また行燈山の周濠に水をため農業用水として利用、この水は明治の干ばつに役立ち、専行院に「修陵餘潤之碑」を残します。

  こうして数々の功績を奈良に残した川路聖謨でしたが、1868年江戸開城の翌日(3月15日)病床にあった川路はピストル自殺を遂げています。

以上、今回のアカダマ会の内容ですが、講師の森下氏の話しは、幅広くなかなか、まとめきれません。

余談ですが、私が小学校以来、文房具を買い求めていた文房具屋さんが、この川路の下で与力を勤めていた中条良蔵の家が、明治維新以来士族を捨て開業した店であったことを初めて知りました。

 

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平成14年から15年にかけて実施された学術調査によっても
明らかにされたように、6世紀の古墳である吉備塚が何故、
奈良時代の学者・政治家として有名な吉備真備の墓と伝えられているのか、
南都陰陽師の家系で奈良暦を明治以前まで発行していた中尾家の方の
話がその手掛かりになりそうです。

「御先祖の吉備大臣を、お祀りしてあるのが吉備塚です。
10月2日の御命日にはお参りします。
私の家のお位牌には吉備ではなく、賀茂と書いてございます。」

吉備大臣の子孫と称した南都陰陽師の幸徳井家が吉備塚のあたりに
住いしていたことは「奈良坊目拙解」幸之上町の条にも記載があります。
「往昔、陰陽博士幸徳井氏族〈賀茂氏、吉備大臣の末孫なり)此の所に住居して、
今に古井当町家の人家裏に在り。
幸徳井と号す。是則ち居地の遺跡なり。
仍て幸徳井町と名づく。其後、字音を省略し、訓を転じて、幸井(サイハヒ)町
と号く。」
 現在、教育大の前の通りを隔てたあたりを、幸町と称しますが、
この名前の由来が陰陽師である幸徳井家に由来するとのこと。
陰陽師の賀茂氏が吉備大臣の末裔である旨の伝承が語られています。
江戸時代宝永年間に記された「大和名勝志」には
平城京四個陰陽家として、
 滋野家、阿倍家、橘家、吉備家をあげ、その吉備家を
 「吉備朝臣家後改賀茂朝臣」と記しています。
幸徳井家については、15世紀頃賀茂友と言う人物を初代とし、
その友幸は明徳2年(1391)に安倍友氏の息子として生まれ、
応永26年(1419)に賀茂家の養子となり幸徳井家の初代となった。
と伝えています。
友幸は『大乗院寺社雑事記』に
「享徳3年(1453)9月
仰付従3位友幸荒神供沙汰了」とあり実在の人物です。
幸徳井家は陰陽師として活動初は連綿と続き、
明治3年のおん祭りにも
「幸徳井従4位清祓す。」と記載があります。
その住居については当初、吉備塚の北邊とありましたが、
『奈良坊目拙解』で
幸徳井累世干當郷吉備塚北邊乎、其後移居ヲ於野田村山上
とあり、幸町から野田へ移り住んだようであり、幕末の古図にも
野田の春日社家北郷の一角にその名前が見えます。
 上記の中尾家のある陰陽町には、先述の『奈良坊目拙解』
當所陰陽師賀茂氏苗裔ニシテ而舊年在於吉備塚邊幸町ニ、
其後令離散、居移 今地ニ云々。
とあり、幸町の吉備塚周辺に住んでいた賀茂氏を祖先とする人たちが
陰陽町に移り住んだとあります。
中尾家は陰陽師として、南都暦の作成に、明治に至るまで関わっていました。
このように、当初吉備塚の北辺りに、陰陽師の賀茂氏の住まいがあり
吉備塚を祖先としてお祀りしていたことは分かります.

 
その吉備塚をお祀りしていた様子が、「奈良名所絵巻」に、
烏帽子に浄衣を着た陰陽師が、御幣を立て祈念している様子描かれており
奈良市史にもその写真が掲載されています。
 
その場所について、連隊勤務のk氏より聞き取った次の話し。
「塚の南側に小さな灯篭(3尺ほど)が立っていた。
4尺4方の方形の石の台があり、3層の石壇で、仏教式のものでなく、
珍しい灯籠だった」これが恐らく、
陰陽師が吉備塚を拝礼する場所であったと思われます。
以上のように、吉備塚を陰陽師達が祖神としてお祀りし、
吉備塚に関する数々の伝説も、陰陽師によって、流布されたと考えて
間違いは、ないと思います。
では何故、吉備真備が陰陽師の祖として崇められたのかについては、
推察するしかありませんが、真備が唐より持ち帰った大量の書籍の中には
当然後の陰陽道に通ずるものが、含まれていたであろうことは想像でき、
さらには、真備に関する数々の伝説が真備の神格化に寄与したものと考えられます。
平安時代、小野篁の、不思議な伝説、真備の伝説も、遣唐使という、
帰還することが困難な使命を2度も奇跡的に無事に果たした真備に
神格性を見た庶民の感覚であろうかと思われます。
平安時代末期に書かれた今昔物語にも
「吉備真備は陰陽の術を極めたる人云々・・」
と書かれており、その頃には既に、吉備真備と陰陽道のかかわりについて
共通認識があったことを伺わせます。
  
以上吉備塚と陰陽師の関係については、ある程度裏付けがありますが、
それが何時まで遡れるか、今のところ江戸時代以前については不明です。
ただ、この高畑の地に吉備塚、それに関連して、清明塚、更には、広嗣を祀る
鏡神社、玄昉の首塚の伝説がある頭塔があることは、
決して偶然とは思えず、さらなる調査が必要です。
梅木宮司の原稿を受け取ってから、高畑周辺ですぐに見れる場所、
 そして、現場が分からない場所は鏡神社にお聞きして確認して回りました。
ここからは、伝承の背景を探る作業に入ります。
お預かりした伝承の内容を検討すると、大きく3つに分かれると思います。
一つは吉備塚を中心として、清明塚や、破石、頭塔、広嗣と、奈良時代後半期
を代表する人物との係わり、さらに、陰陽師の存在をうかがわせる内容です。

もう一つは、赤穂神社を中心として、ヒメ塚、ゴリョウ塚など飛鳥、奈良時代の
 ヒメミコに関わる伝承。

さらには、なぜか平安時代の僧、俊寛に関わる伝説、その他。

これらの伝説が相互に絡まり合い、関わり合いながら伝わっており、
  高畑の伝承の奥の深さには改めて驚かされることになりました。

 ただ吉備塚は発掘の結果、大体6世紀の古墳であることが確認されており、
吉備真備の墓である可能性はないことは、わかっています。
住いがあったかどうかについては、今のところ、
それを示す資料も否定する資料もありません。

ただ、吉備塚に関する多くの伝承が、陰陽師に由来するらしいことはわかります。

この陰陽師から安倍晴明がの名前が出、鏡神社から藤原広嗣が関わり、
そこから、破石の、阿倍氏、藤原氏、吉備氏の境界の伝説が生まれたであろう
と推察されますが、それぞれの時代が違い、どれが史実か、後付けの伝承か
見極めが難しく、簡単な作業ではありません。

そこで、まず、吉備真備から学びなおす必要を感じているところに
 タイミングよく平城京歴史講座で
 
「玄昉・真備の入唐後における活躍」

大阪大学准教授で、奈文研出身の 市 大樹先生が話をされるということで
早速、聞きに行ってきました。

その資料に基づいて
 まず、真備の略歴です。

下道朝臣国勝の子として生まれ、続日本紀に
「霊亀2年(716)22歳にして入唐、留学して業を受く。
経史を研覧して、衆芸に該渉せり。
我が朝の学生の名を唐国に播す者は、ただ大臣及び安倍仲麻呂の二人のみ。」

と記されるほどの勉学を積んで、天平7年(735)20年の留唐を終え帰国します。
帰国に際しては阿倍仲麻呂と同じように唐の朝廷から引き留められたと言った話が
遺ります。
 
玄昉の生年月日は不明ですが、霊亀2年(716年)遣唐使と共に入唐。
その学才は唐の天子にも認められ、3品に準じる紫袈裟の着用を許されたほどです。
天平7年(735)帰国にあたっては仏教の経典及びその注釈書5千余巻、
各種の仏像を日本にもたらし、その功績により日本でも唐と同じく紫の袈裟を
許され僧正に任じられています。
さらには、天平9年、聖武天皇の母である宮子夫人は出産以来永い気鬱に悩まされ
常人らしい行動をとれず出産以来、子である天皇にも会ったことがないという状態でしたが
玄昉が看病するやたちまち回復したと言われています。
こうして聖武天皇、光明皇后の厚い信頼を得、さらには同じ遣唐使であった
吉備真備を通じ時の権力者右大臣橘諸兄にも重用されることになります。
このことが橘諸兄と権力争いをしていた藤原一族を敵に回す結果となり
宇合の子である式家の広嗣が左遷先の九州から玄昉、
吉備真備を除くよう上表文を提出し、それが認められぬとしるや
反乱軍を起こし、結果広嗣は撃たれてしまいます。
反乱の汚名を被って撃たれた広嗣はやがて怨霊となります。

その後権力争いの犠牲となり玄昉が築紫に配せられ
観世音寺の落成式に臨んだ時急死します。
世の人は是を広嗣の祟りし、雲の中より現れた広嗣の霊が玄昉の体をつかみ
奈良の地に飛散させ、その首は頭塔に、腕は肘塚町に、眉と目は大豆山町に
飛来させたという伝説がうまれます。
   
高畑伝承の真備に関する話は、大きく2つの部分に分かれます。
最初に吉備真備がカエルの鳴き声を封じた話。
次に吉備塚の祟りについてです。
最初の話しは吉備真備が、いかに優れた霊力を持っているか
と言う話です。
この音無し川は現在はありません。江戸時代の地図で確認すると
確かに吉備塚の北側を通り、鳴川にまっすぐ西下する川が確認できます。
ところが、鳴川町には同じような話が伝わっています。
元興寺の護命僧正が小塔院で読経の際、群蛙が喧しく鳴きたて読経を
妨げたので、神呪を唱えてこれを止めさせた。
後世、蛙の声を聞かなくなったので不鳴川と称したが、いつのまにか
誤って鳴川と呼ぶようになったといい、また、川の流れが音をたてるので
鳴川と称すと言った伝承である。
こういった地名伝承は、おそらく各地にあり、その際、法力を以て
止めた人物の名前も各地にあると思われます。

祟りに関しては、この伝承が、江戸時代以来塚の形状が守られ、
その後の連隊工事、更には進駐軍、大学などの工事の破壊から
塚を守るのに大いに貢献したように、塚を守るために生まれた伝承かと
考えられます。

こうした伝承は、陰陽師が広めた可能性が高いと思われますが、
陰陽師に関してはこれからの勉強です。
と言うわけで課題山積です。
アカッツアン・シラツッアン

赤乳さんは5月15日が祭日で、春日はんの末社になっているが、
昔はコリ場であった。
白乳さんの前にもコリ場があり、昔、祭りの前には春日はんの神主さんが
禊ぎをした。


能登川の上流に、一ノ井を挟んで白乳・赤乳と言う二つの小祠があり、
共に春日の末社になっている。
一ノ井は大祓いに際しての春日祠官の禊ぎ場であった。
その時に祀る神が固定して白乳社となったものだろう。
赤乳社は白毫寺領内であり、5月15日が祭日。
数年前までは宅春日神社の氏子から神饌を調えて早朝から運び、
春日神社の神職が来て祭典をした。
女性の臍から下を守る神さんだと信ぜられて、かっては盛大な信仰が集まった。
赤い小さな紙の旗に、婦人の名を書いて奉納する風がある。


高円山のイワクラ

 高円山にはイワクラがあって、それは岩が三つあると聞いている。
 ミヨト川(能登川のこと)から見て、真東の山頂にある。
昔は鏡の明神さんの鳥居の外へ、神饌をイワクラに向けて供え、
お祭りをしたものである。

稚児塚
 岩淵千坊の跡と言うところにあり、地蔵さんが祀ってある。

ヤマトタケルノミコトの歌よみの地
 高円山の頂上近く、今、お火焚き(大文字焼きのこと)をするあたりに、
 昔、ヤマトタケルノミコトが歌よみしやはったというところがある。
  
 高円山の中腹には、浄瑠璃塚というところがある。

宅春日

 昔は、南向きに本殿が建っていた。
 アメノコヤネノミコトが、枚岡から春日へ来られる時に、
 一服しやはっ土地だ。と伝える。下には大きな岩があり、古墳だという。

焼春日

 昔、焼けたことがあるから焼春日と言うと聞いている。
 近くの家の改築の時,地べたから焼け土の層が広く出たので、
 やっぱり、大火事があったのかと話し合うたことがある。

高円山から吉野まで峰続き

 大杉さんが、若い時に修行を、しやはった。
 高円山から吉野まで、誰にも見られずに往来する行もあったとのこと。
 これは、昔から、山伏・行者もしたことである。
 吉野まで行って、うまいこといったと.思った時、一人の山人に
 見つかりそうになったので、びっくりして山へ逃げ込んだこともあったと言う。
 高円山に山伏の行場があったというのは、どこかわからぬが、吉野まで
 ずっと峰続きだというから、至る所に行場はあったのだろう。

 瑜伽山の狐

狐の皮を商う商人が、猿沢池の近くの旅籠にやってきた。
宿の庭で、その商人はネズミの天ぷらを揚げはじめた。
それは、狐の大好物であり、瑜伽山の狐をおびき寄せるためであった。
色々な姿に化けた狐がやってきたがそれを、どいう方法で
商人がつかまえたのかはわからない。
狐の化けた美女と、本物の人間とでは見分け方がある。
狐の場合はたとえ闇夜であっても、着物の柄が白昼に見るように
はっきりしているのですぐに判る。

以上、鏡神社からお預かりした話を、ほぼ、そのまま掲載しました。
今の世の中で差支えある話をや、実名は、なるべく避けました。

これらの昔語りが、何を伝えるのか、これから時間をかけて
調べていきたいと思います。

この話を梅木氏が採集されたのが、すでに50年前。
今、改めてお話を聞ける人も、ほとんどいません。

これらの話しが、何を伝え、また何を伝えたかったのか?
私も決して若くないので、皆さんの協力を得ながら
知らべていきたいと思います。
もし何か、これ以外にも聞いた話があるようでしたら、
お知らせいただければ幸いです。

少し時間をおいて、今わかることだけでも、
これから書いていきたいと思っています。

イガミ御霊さん

不空院の住職談

不空院の巽の隅にゴリョウ塚と言うのがあり、貴いお姫さんの塚であると伝えている。
どなたのことなのかはわからぬ。
女人守護のご利益のある塚である。
  

社家の千鳥氏談
この辺は以前は井上村と言い、イネンド(井上堂)と言う祈禱所のあったことが、
千鳥家の古図にある。
高野山のに丹生都比賣神社の近くに猪上(イガミ)の社と言うのがある。
この井上堂はイガミさんで、井上内親王を祀ったのがこのゴリョウ塚でなかろうか。
鏡神社の末社の天神さんも管公さんではなく、家の記録には井上内親王のお子さん
の若宮火雷天神だとある。
 
宮火雷天神 鏡神社本殿の傍らにひっそりとたたずむ社。
井上内親王のお子さんを祀った社の可能性が指摘されています。


このゴリョウ塚はイガミさんに違いない。と断言された。
ゴリョウ塚は春日社の社家中西家が代々守護神として大切にしてこられた。

本堂前にある祠の弁天さんの神明は市岐嶋姫。ゴリョウさんは市岐姫である。

梅木氏の推論では、
(天武紀の記事
 天武11年春、壬子(月)18日)氷上夫人宮中に薨せましぬ。
 癸丑(19日)地動。
 辛酉(27日)に氷上夫人を赤穂に祀る。
氷上夫人は藤原鎌足の娘であり、藤原夫人氷上大刀自とも称せられ、
但馬皇女を生んだ人である。
赤穂の地には、7年に十市皇女が11年には氷上夫人が、はるはる藤原京から
運ばれて葬られている。
二人とも宮中に薨じ、その穢れのためか、天変地異が起こっていることが
共通である。

この高畑・赤穂の地が天武朝の皇妃の葬地であったとすると、
ヒガミ御霊ーイガミ御霊(八所御霊)と、
高畑の地に御霊鎮斎の祭禮が連綿と行われ、この地に陰陽道史や
御霊信仰前史さらに数々の奇異なる伝説が残されている意味が
理解される。」

この赤穂の地が高畑と推定している。
地名学から言えば

アカニフーアカニホーアカホとなり、赤い土が出る地にアカホが多い。
高畑の丹坂も関係するかもしれない。

高畑町にある式内社赤穂神社は昭和初年有志により式内赤穂神社の標石が建てられた。
大和志料でも赤穂神社と擬しており、延享4年の石灯籠がある。赤部社とする記録もある。

古老の話しでは
「昔は赤穂神社をアカボさんと呼んでいる。
昔はもっと地所が広かったが、だんだん削られて狭くなってしまった。
皇族のお姫さんを葬ってある所と言うて、誰もさわるものがなかった。」
と言うことである。



アカンボ、今、閼伽井庵と言う浄土寺となっている。
昔から年寄った尼さんが住んでいて、ソロバン占をしていた。
内らに鎮宅霊符神さんが祀ってある。
光明皇后さんが眼病のために目を洗わはった閼伽井のある所と言う。

閼伽井

光明皇后さんが眼を患われた時に、洗ってすっかりよくなられた閼伽井は、
今の閼伽井庵の隣にあった。
今は天理教が建ち、その床下にあたるところにあった。

私の姓(直井)はそう言う名の井戸があったということでる。

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奈良市にあった喫茶店『可否茶座 アカダマ』の元マスター.
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