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元興寺文化財研究所の副所長狭川氏による「元興寺ゆかりの地名」
という3回シリーズで2回が座学、最終回が実地研修と言う講座に
参加しています。

広い意味での奈良町は江戸時代に奈良町奉行所に管轄された旧奈良市内。

北は1条通り南は京終、東は東大寺から教育大へ延びる東大路まで
西は現在のJR奈良駅あたりまでぐらいを指しますが、狭い意味では
元興寺の衰亡と共にその旧境内地に自然発生的に発達した町並みを指します。
従ってその町名に多く元興寺のゆかりの名前を残しています。
 
奈良町の町名に関しては、古くは『奈良坊目拙解』が詳しいですが、
現在の著作では山田熊夫氏の『奈良町風土記』が奈良市全域を網羅して
 います。
今回の講座も『奈良坊目拙解』から多く引用されています。
 
  
この講座を聞いてふと思いだしたのは昔、町のお年寄りに聞いた
 奈良町には七小路、七御門の町名があるという話です。

 そこで早速現在の地図で調べてみました。
小路では草小路、林小路、今小路が、
そして御門では高御門、下御門、今御門、西御門、中御門の町名が見つかりました。
 これでは、小路は三小路、御門は五御門しかありません。

さらに江戸時代の地図で調べてみると、さらに小路で、北小路、押小路が
見つかりましたが、これでもまだ足りません。

御門の内、高御門、下御門、今御門は元興寺の門に由来の町名です。
下御門は元興寺の西北大門のあった場所、今御門は元興寺北大門。
高御門は元興寺西南大門に由来します。

 西御門は興福寺の西大門に由来する町名です。
中御門は東大寺の俗称焼け門に由来します。
後一つ東御門は『習見聴諺集』「南都興福寺七郷」の中にその名前を見つけました。

南都七郷
 南大門郷、新薬師寺郷、東御門郷、北御門郷、穴口郷、西御門郷、不開門郷

この中の東御門郷〈金堂郷)
南院、中村、登大路、東里、芝、西野田、東野田、北野田、重持院で構成されています。
野田は現在の県公開堂園地あたりを指し場所から東大寺の門ゆかりだと思われます。
さらに東大寺郷の中に
転害、今小路、宮住、中御門、押上、南院(水門)北御門、今在家と
北御門の名前を見つけました


以上で七御門は無事見つかりました。
高御門、下御門、今御門、西御門、東御門、中御門、北御門

後は小路です。
ご存知のように平城京は4町(約500m)ごとに大路を東西南北に設け
その間にさらに3筋の道を縦横に作ってこれを小路と呼びましたが、
現在の地名の小路はそれとはかかわりは少ないと思われます。
さて後3つの小路はこれも南都七郷の中、北御門郷に上北小路、下北小路。
大乗院門跡郷の中、本郷に辰巳小路という名前があり。
草小路、林小路、今小路、押小路、辰巳小路、そして上、下の北小路ということで
なんとか七小路がそろいました。
郷は鎌倉時代の中頃には成立していて、七郷の中に含まれる町名も
鎌倉時代には成立していたと思われます。

果たしてこれで昔から言われるとされる
七小路、七御門と合致してるのか定かではありませんが、数はそろいました。

以上、もしこのことで他にご存知の方があれば教えていただければ幸いです。
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京都検定の2級ぐらいと甘く見て、自信満々挑んだのですが、
結果は70点に届かず63点で不合格。
そこで心を入れ替えて今年はできるだけ現地に出かけようと思います。
そんな時、目についたのが、「京の冬の旅」の案内。
この時期奈良でも京都でも閑散期ですので、その時期に普段は見せない社寺の
特別公開がありますが、今回はそういった特別公開の社寺を巡る
観光バスに乗ることにしました。
考えてみると観光バスに乗るのは何十年ぶり、京都を観光するのは、
初めてのことです。
大学は京都ですが、奈良と京都を往復していただけで、観光は一切せず。
大人になっても京都は近すぎて魅力を感じませんでしたので、
この年まで結局京都はどこも知らずじまいというわけです。
しかしこれは私だけでなく、同じように奈良人で京都の大学へ通って
いた人も、大学近くの金閣も銀閣も行ったことがないと言っていました。

今回のバスツアーのテーマは
「京都の幕末・維新の歴史を訪ねて」ということで、
明治維新150年と西郷隆盛に因んだ特別コースです。
今年の京都検定にも出そうなテーマです。

最初の訪問地は清水寺。

相変わらずの混雑ですが、舞台は現在修理中で幕に覆われています。
しかし今回はそこはパスして塔頭の「成就院」へ向かいます。
幕末の勤皇僧として知られ、最後は隆盛と鹿児島湾で入水した
月照と弟信海上人が住職を務め、西郷隆盛や、近衛忠煕らが集まって
密談が行われたという場所です。
なんと、西郷と月照が入水した時に身に着けていた衣が展示されています。



その庭園は「雪月花」の三名園の一つ「月の庭」として知られています。
確か今年の2級の問題にも出ていたと思います。


次が宝鏡寺。
代々皇女が住職を務めたことから「百々の御所」と呼ばれた尼門跡寺院。
人形の寺とも呼ばれこの寺も京都検定ではよく取り上げられるお寺で
皇女和宮ゆかりの寺でもあります。
近くには茶道家元表千家の不審庵。裏千家の今日庵もあります。



次は「定林寺」普通観光で訪れることはあまりないと思います。
萩の寺として知られていますが、今回は勝海舟が京都での定宿と
しており、坂本龍馬も逗留したということでコースに入っています。





最後が東福寺塔頭即宗院。
薩摩の島津氏久の菩提を弔うため創建された塔頭。
西郷隆盛、月照がここで討幕の密議を重ねたと言います。
鳥羽伏見の戦いでは薩摩軍が寺の裏山から幕府軍に砲撃を加えた
と伝えられています。
関白藤原兼実の山荘「月輪殿」の庭園も公開されています。
また境内には西郷隆盛が明治維新で戦死した524霊の名前を
斎戒沐浴して一人ひとり揮毫した「東征戦亡の碑」が残されています。
 
さすがにこの時期、秋や春にはごった返す東福寺通天僑も人は少ないです。

月輪殿庭園


今回のバスツアーはこの時期しか見れない庭園や寺院が組み込まれていて
個人ではなかなかこうわ手際よく回れないし大変有意義でした。
しかしさすがに千年の都、奈良検定より時代の幅が広く、
また寺院の数もけた違い。
相当勉強しなければ合格は難しいと実感させられました。

途中、清明神社の前を通ると、 フィギュア―スケートの羽生選手の
勝利を祈る人で行列ができていました。
次はフりー。
頑張ってほしいです。
2月10日に表記の研究発表会が奈良大学の教室で開催されました。

主催は学友会の近畿支部で初の試みです。
参加者は奈良大学歴史文化財学科通信教育部の休学者を含む全員で、
大学の全面的なバックアップを得て開催されました。
当日は通信のスクーリングも行われていたので、現役の学生の参加もあり
参加者も予想以上に多く盛り上がりました。
発表会後は恒例?の飲み会兼反省会も開かれ遅くまで楽しい時間でした。
私も発表者の一人として手を挙げて参加したのですが、卒業して早6年。
私の卒業論文のテーマである春日大社の成立に関する諸問題について、
卒業してからも引き続き勉強を続けてはいましたが、実際のところ時に、
こうして勉強して一体どうするつもりなのか自問自答ときもあり、
こうした機会を今回も設け受てくださった学友会の近畿支部の役員の
皆さんには感謝です。
ただ持ち時間が30分と限られていた為、
論点を挙げる程度で時間が過ぎるだろうと
高をくくっていて、挙句は発表内容については反省ばかりです。
しかし、こういう機会があってこその貴重な体験で
今後、きっとこの体験は貴重なものとなりそうです。

論点は多くは上げずただ1点。
何故鹿島から来られた神が安倍山を経由されたか?
伝承は虚実を入り混ぜたものですから、安倍山に最初に立ち寄った話が
果たして真実かどうか疑問はもちろんありますが、
もし事実でないなら、なぜわざわざ安倍山に立ち寄った話を
入れなければならないのか?
三重の名張から、山越えで大和に入った先が、
たまたま桜井であったというだけでは説明がつきません。
安倍山に立ち寄ったのはそれなりの理由があるはず。

これが今回の話しのテーマでした。
調べていく過程で安倍氏について見逃せない事実がいくつかわかりました。
それは藤原氏のj始祖である鎌足と安倍氏の関係です。

もう一つが鹿島のタケミカヅチの神と安倍氏の関係。
正直十分に話せませんでしたが、それは私の準備不足も含め
私自身がまだ整理がついていないからです。

今日からまた論点の整理を始め、いつかこのブログで発表できたらと思います。

今回は元興寺文化財研究所主催の現地学習会に参加しました。
しかし最近どうも私の天気運が悪く、今回も雨。
おまけに参加者定員は20名と聞いていたのに、ふたを開けると
倍以上の大人数。
少人数でゆっくり話が聞けると思って参加したのに当てが外れました。

今回の現地学習会のテーマは玄昉です。

一応玄昉について少し書いておきます。
玄昉の生年月日は不明ですが、霊亀2年(716年)遣唐使と共に入唐。
その学才は唐の天子にも認められ、3品に準じる紫袈裟の着用を許されたほどです。
天平7年(735)帰国にあたっては仏教の経典及びその注釈書5千余巻、
各種の仏像を日本にもたらし、その功績により日本でも唐と同じく紫の袈裟を
許され僧正に任じられています。
さらには、天平9年、聖武天皇の母である宮子夫人は出産以来永い気鬱に悩まされ
常人らしい行動をとれず出産以来、子である天皇にも会ったことがないという状態でしたが
玄昉が看病するやたちまち回復したと言われています。
こうして聖武天皇、光明皇后の厚い信頼を得、さらには同じ遣唐使であった
吉備真備を通じ時の権力者右大臣橘諸兄にも重用されることになります。
このことが橘諸兄と権力争いをしていた藤原一族を敵に回す結果となり
宇合の子である式家の広嗣が左遷先の九州から玄昉、
吉備真備を除くよう上表文を提出し、それが認められぬとしるや
反乱軍を起こし、結果広嗣は撃たれてしまいます。
反乱の汚名を被って撃たれた広嗣はやがて怨霊となります。

その後権力争いの犠牲となり玄昉が築紫に配せられ
観世音寺の落成式に臨んだ時急死します。
世の人は是を広嗣の祟りし、雲の中より現れた広嗣の霊が玄昉の体をつかみ
奈良の地に飛散させ、その首は頭塔に、腕は肘塚町に、眉と目は大豆山町に
飛来させたという伝説がうまれます。
 

 

 
  今回の現地学習会はこのうち、眉目が飛来したという大豆山町、
胴体が埋められたという胴塚、そして眉間寺を訪ねます。
 
講師は元興寺文化財研究所の狭川副所長。

最初に訪れたのは念仏寺。
一般に山の寺の通称で知られています。
袋中上人が伏見城代松平定勝から扶持を受け堂宇を建立したとあります。

やすらぎの道を漢国神社を素通りして東門から入りましたが、
 奥で開化天皇陵と接しています。
塀越しの見えるのが開化天皇陵で、かってはこの御陵も境内であり、
袋中上人がこの陵の中腹に庵をむすび
山を眉目山と呼んでいたそうです。
ここでまず最初の玄昉眉目山が出てきます。

次に訪れたのが大豆山(まめやま)にある崇徳寺。
このお寺の裏庭に玄昉の眉目塚があります。

この祠や五輪塔は後世のもので、今回の目的は見たところ
何の変哲もない、やや小高くなった塚らしき小山です。
これが今回の玄昉ゆかりの眉目塚だそうです。
ここから方向を北にとり、東大寺の転害門を目指します。

東大寺の西大門と八坂神社の中間あたり、街の片隅に
この玄昉胴塚があり、その場所に弁財天が祀られています。
 

そこからさらに北、今度は多聞城跡を訪ねます。
この小高くなった崖の上がかって多聞城が築かれたところです。


  
 最後の訪問地、聖武天皇・光明皇后陵はこの多聞城と
連なっています。
しかし目的はこの御陵ではなく、かって聖武陵を弔うために
あったという眉間寺です。
現在は御陵への参道となっていますがこの道は実はかっての眉間寺の参道で
現在の聖武陵の中腹に眉間寺がありましたが、明治の廃仏毀釈で
現在は跡形もありません。

こうして玄昉の体がばらばらになって飛散して落ちたと言う
伝説の地を回りましたが、なぜこういう伝説ができたのか?
その理由を今回の講師である狭川氏はこう解釈しています。
今回の見学会では訪れませんでしたが元興寺の研究所のある場所が、
体の内、腕が落ちたという、肘塚町、
そして玄昉の頭が埋められているという伝説がある頭塔。
更にまだ確定できていませんが、もう1か所西城戸にある厳島神社。
今回の訪問地である眉目塚、胴塚と合わせ5か所、これを線で結んだ
結界を作ったという説を唱えられています。
どいう結界かと言うと、興福寺の周りを取り囲み、
興福寺を怨霊から守るというわけです。
この5か所を線で結ぶと丁度興福寺の中心である中金堂あたり
になります。
怨霊思想は一応奈良時代にはまだなかったと言いますが、
この結界はおそらく平安時代に入ってからと考えられます。
大変興味ある考え方ですが、まだ確立されたわけではなく
これから一層の検証が必要で今回の見学会でまた新たな課題が見つかりました。
10月21日に以前から計画していた春日社の足跡を辿り、
桜井の安倍山をアカダマ会で訪ねました。
案内はやはりソムリエで桜井在住のS氏にお願いしました。
当日は折から台風接近も伝えられあいにくの雨、
それにもかかわらず東京からもソムリエのF氏さらに
私の奈良大学の同級生も加わって総勢8名が雨中を出発。

最初におさらいですが、春日大社の祭神は
武甕槌神(常陸国・鹿島の神)・経津主神(下総国・香取の神)
天児屋根神(河内国・枚岡の神)・同比売神


天児屋根神・比売神は中臣氏の祖神とされ中臣氏・藤原氏の氏神である春日大社に
お祀りされるのは当然ですが、なぜ鹿島から武甕槌。香取から経津神が
招かれているのかについては諸説あり定説はありません。

その中で有力な説が3あります。

一つは鎌足が鹿島の出身であるという説です。
これは一般的に大変分かりやすい理由であり受け入れやすい説であることから
平安時代に書かれた「大鏡」にもそのように書かれ、鹿島には鎌足神社すらありますが、
残念ながらこれを肯定する史料的な裏付けはありません。

二つ目は中臣氏系図に初代と比定される中臣黒田が鹿島出身であるという説。
仏教導入を巡る争いの中で中臣本宗家が滅び代わりに鹿島出身の黒田が
本宗家を継いだということです。
同じく物部氏もこの争いの中で本宗家の交代があり、支族である石上氏が本宗家を
継いでいますから説得力はありますが、これも確実な裏付けとなる資料がありません。

三つ目は

 

不比等の子宇合は養老3年(719)安房・上総・下総の三国を
管する按察使であり、同時に常陸守でもあった宇合は
陸奥国の海道蝦夷の持節大将軍としてタケミカヅチの神を
従軍神として帯同しこれを平定したとあります。
これにより宇合は奈良に在っても鹿島の神を厚く敬いお祀りをし、
その死後は同じく藤原氏の娘である光明皇后が鹿島の神を引き続き
皇后宮でお祀り、されには光明皇后が亡くなった後
その娘である称徳天皇が皇后宮で祀られていたそれらの
神々を春日大社にお遷ししたという説です。
この説に関しては、直接裏付けられる資料こそありませんが、
この説を支持する傍証がいくつかあり、かなり有力な説です。
 
 
以上のように鹿島・香取の神が春日大社に祀られる理由は
定かではありませんが、今回の見学会の目的は
 春日の社家である大東家に伝わる『古社記』に書かれているように
鹿島・香取の神が春日社の創設にあたって鹿の背に乗ってはるばる奈良の地に入り、
まず足跡を記したとされる安倍山を訪ねることにあります。


『古社記』

 

「常陸の国のお住まいより三笠山に移りますの間、鹿を以って御馬となし、
柿の木の枝を以って、鞭として御出あり。

 

 

先ず神護景雲元年六月二十一日伊賀の国名張郡夏身郷に来着す。

一の瀬という河にて沐浴しおはしますの間、鞭を以ってしるしとなし、
くだんの河辺に立ち給う。
則樹となりて生付きおはんぬ。
そこより立ちて、同国のこものふ山に渡りおはす。数か月居御す。

その時時風、秀行等に焼き栗を各々一つ給ひてのたまう。
「汝等子孫に到るまで、断絶なく我につかうべくんば、
その栗植うるに必ず生付くべし。」


よって仰せに従いて植うるに、すなわち生付きぬ御わんぬ。
是より始めて中臣の植栗連ともうす。

同年十二月七日大和の国磯上郡安部山の御座す。」



最初にこの中臣の植栗連ゆかりの神社を訪れました。
今回のガイド役S氏が我々を案内してくださったのが
十ノ森神社。

S氏によれば、今は上の庄集落の南西端にある植栗神社は
明治7(1874)までは三十八社神社と呼ばれ
十の森にあった春日神社を合祀(移転)したものでその際に名まえも
植栗神社と改められた可能性があるとのこと。
十ノ森は上つ道に接し付近には字、江繰(えぐり)も残されている。

この「くり」という言葉はキイワードでもあります。

鹿島からお供してきた中臣時風。秀行が道中植栗という名を神よりいただき
春日社の社家の始まりとなるわけですが、植栗神社の祭神は植栗王とされます。
続記に和銅2年(708)従七位下植栗物部名代に植栗連の姓を賜うとあり、
植栗連大中臣同祖と『姓氏録』にあります。
『神名帳考証』は用明天皇第三皇子植栗皇子とされて、
鹿島からお供してきたとされる植栗連との関連は不明です。
さらには
中臣殖栗連「続日本記』天平十一年(七三九)正月一三日条
「无位中臣殖栗連豊日を従五位上に叙す。」

という記事があり、768年以前に植栗連が存在したという記事が散見されます。
 『古社記』の記事によれば鹿島から神が御動座される途中に
賜ったはずの植栗連という姓のはずですが、それ以前にこうして登場しており、
 社伝との整合性についはさらなる研究が必要です。
 
  
これが十の森神社で由来を聞かなければ
全く注意をひかなかったことでしょう。
 
次にここより雨の中徒歩で10分ほど歩いて、
上の庄の集落にある植栗神社へ移動しました。
境内には東より入り社殿は南面しています。その社殿の右奥に土塀に囲まれた
春日社があります。

    

この植栗神社の存在が『古社記』の記述を裏付けるものなのか
判断は難しいところです。

ここから雨の中30分ほどひたすら安倍地区を歩き、
次に
今回の最大の目的地である阿部山へと向かいます。

そこで、ガイドのS氏がここに上りましょうといきなり登り始めたのが
なんと墓地。

この丘陵は墓地のために造成されたのではなく自然の丘陵の上に築かれたもので
形状はかなり周りを削られて変わっていますが実はこの小高い丘こそ
条里図にある神宮山(しんぐりやま)なのでした。

その上からは周囲が見渡せ、目の前には安倍文殊院の森があり、
南には安倍寺跡、はるかに畝傍山も見えます。
まさにこの辺り一帯が安倍山。
現地に来るまでは、私は安倍山と言う小高い丘があるものと
思っていましたが、独立した安倍山という山はないということ。
やはり現地に来なければわからないものです。

この丘を降りたすぐに、やはり条里図に書かれた字榎本、3本柿があります。

これが榎本・3本柿の字名を持つ土地ですが、案内がなければ
気にも留めなかったことでしょう。
「古社記」に謂う安倍山、そして鹿島神宮を伺わせる神宮山、
読み方がしんぐりと、ここでも栗が出てきて、字榎本、柿。
この場所こそ、鹿島の神が最初に到着されたと言われる場所なのでしょうか?
伝承が有名になれば逆に後付で命名されるケースもままありますが、
平城旧跡で土地の人が長らくダイコクの芝と呼んでいた場所が後に
大極殿跡だと確認されたように伝承名を決して軽んじてはいけません。
この土地の前を走る道の西は安倍文殊院。東は藤原宮大極殿跡。
安倍文殊院の場所も安倍山。
さらにこの辺り一帯は古代の宮が多く築かれた磐余の地。
神武天皇もその名にカムヤマトイワレヒコと、イワレを含み
更に鎌足の祖父も中臣磐余とその名に磐余があり、藤原宮は
その名前は土地名が藤原であることから来ており、
その近くは藤原一族ゆかりの大原の地。
そしてこの辺り一帯は安倍氏ゆかりの土地。
御蓋山と、安倍山の土地交換の話。榎本神社。
まさに妄想は広がるばかりです。

帰り道は長門池、石寸山口神社、土舞台を経て、磐余若櫻神社を
雨中訪ね回りました。

 

今回磐余の地を訪ね春日大社の創建に対し果てしなく想像は膨らみますが、
この地に立てたことが今回の最大の収穫でした。
そして桜井駅に到着する前、この地区の人達が奉納した市街地に立つ珍しい
勧請綱をくぐって解散となりました。
台風の近づく中、皆無事に歩きとおし、実に有意義な一日でした
雨の中熱心にガイドをして頂いたS氏には本当に感謝です。




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歴史
自己紹介:
奈良市にあった喫茶店『可否茶座 アカダマ』の元マスター.2013年奈良大学通信学部文化財歴史学科を卒業。奈良まほろばソムリエ検定第1期ソムリエ取得。第1回小倉百人一首検定1級合格。
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