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同じく下高畑町にお住いで、江戸時代から続く油屋だった旧家の方からの
聞き取りで清明塚について

清明塚と言うのは、かつて岡谷病院があったところにあった。
私の12,3歳の頃、あの辺りには、ヨノミ(榎)が1本立っていて、
東西2間、南北1間ほどの塚であった。
よく上へ登って遊んだものである。
タタリがあるとは言わなかった。
昔、ここに、安倍仲麻呂さんの邸があり、御蓋山の方に向かってはすかいに
建っていた。
ここから、仲麻呂さんは何時も月を見ておられた。
ここへ、吉備塚から、吉備大臣が毎晩通って来られた。
破石のすぐ東に、通い道が細く続いている。
 
そこで、吉備塚あたりをさ迷ってみると、吉備塚から真北に法務局を挟んで
閼伽井庵ある閼伽井町に通じる細い路地が。これが通う道か?
 
同じ方の破石の話し

下高畑町にある大石である。
これは十文字の入った境界石である。
さわると、きっとよくないことが起こる。
ある人が、そんなことがあるかと言って、これに触り
腹痛をおこして、3日間苦しんだ後、なにかお供えをして石に謝ってやっと
治ったということである。
この石の艮は、安倍清明さんの邸。
巽は藤原広嗣さんの邸。
坤は吉備大臣の邸を示している。
広嗣さんは今の藤原町から出られたお方だということである。
破石
 
同じ方の話しで鏡神社について

僧玄昉の行いが良くないので、広嗣さんが大変怒られた。
広嗣さんは筑紫から朝廷に訴えられたが、宮中から攻められたので、
無念の戦死をされた。
その後、玄昉は、雷になった広嗣さんにつかみ上げられ、引裂かれた。
首は頭塔に、腕は肘塚に落ちた。
眉と目とは、大豆山に落ちた。
胴体の落ちたところをドンボウ(胴坊)と言う。
広嗣さんのお父さん(また、弟ともいう)が
馬から落ちて葦で目を突いて盲目になられた。
それで氏子はチマキを一切作らないと言う。

片目の神さん

広嗣公は戦争の時に馬から落ちて笹で目をけがをし、片目になられた。
だから、氏子中ではチマキを遠慮して一切作らぬ。


広嗣さんの木像

奈良市の藤原町が広嗣公の出里である。
それは破石と言う境界石の指すタツミの方向に当たる。
又、広嗣さんの邸宅が今の鏡の明神さんのところである。
肥前で戦死される目前に、自作の木像を奈良の邸の奥さんに送られた。
それが神社の御神体になっている。

鏡明神の大松

奈良時代、唐への使いが渡る前に祭りがあった。
その場所を記念して植えた松が境内にある。

本殿の屋根にかぶさるくらいの大松が塀の外にあった。
みんなで相談して刈ってしまうことになった。
その作業中に植木屋が過って小指を切った。
その人が家に帰ると、ちょうど同じ時刻に、子供が小指を切って
怪我をしていた。
これは、松の木の祟りだと言うことになり、もう一度その株の前でお祀りをした。
その大株の跡は今でも残っている。
  

俊寛田の話し

藤間家の裏にあり、俊寛跡とも言う。
あの田を作るとフジが入るという。
持ち主が転々と変わった。
8尺ほどの地蔵さんがあった。

俊寛塚とも言い本薬師町にある。
藤間家の裏手にあり、塚跡みたいな3坪ほどの地があり、
石塔婆、石地蔵の断片が散らばっている。
この田はフジ田であり、ヤマヒ田とも言う。
売ろうとしても買い手がない。

社会労働会館の前に、石碑の立っているところ。
もとは塚であって、興福寺の領地であった。
今はすっかり塚の形が無くなってしまった。
あの石の碑は興福寺さんが建てられたものである。
かわいらしい五輪塔がたくさんあったが、人に持っていかれて、
今は一つもなくなってしまった。
由来については良く知らぬ。

今日、たまたま近くを通りかかったので、石碑を探してきました。
草の埋もれ、説明板も薄れて文字も読めません。
これでは、気付く人もいないでしょう。
奈良市史によれば、俊寛は有王丸の計らいで、鬼界ヶ嶋をひそかに逃れ
南都の正覚寺に隠れたと言われている。
俊寛の娘は奈良の叔母の許に忍んでいたが、父の霊を慰めるために尼になった
と伝えており、また、俊寛は幼少の頃、興福寺・興善院で勉学し、その後、
京都・法勝寺に移ったとの。
こうした伝説から、この塚が興福寺の手によって
建てられたのかもしれません。

石崎氏談

 

現在のこの家(石崎医院)は、興福寺の塔頭成身院の跡であり、
有名な浅香山の一部を庭園にしている。
草茫々の荒れ地になっていたところへ、
西大寺の建物を曳いてきたということである。

私の家は、北魚屋東町(今の後藤町)の玉田酒店のところに住み、
代々、漢方医をしていた。

石崎文庫も北魚屋町にあった。

祖父勝蔵の代になって、ここへ移った。
国立博物館の隣に、有名な宝蔵院跡があり、
その地をも所有していた。
そこに摩利支天の石と言う大きな石があり、
触ると祟りがある伝えていた。

祖父勝蔵は、この石を、ここへ移したいと考えた。
それで、公納堂町に住んでいた国学者の吉川躬行先生に
相談したところ、「石の神さんは,礼を尽くして頼めば、
決して怒られるものではない。」との返答であった。
祖父は氷室神社の大宮守慶さんに頼み、
お祀りをしてもらってから、その大石を運び、もう一度、
石の前でお祀りをしてもらった。
だから、二通りの祝詞が遺っている。

そのためか、祟りはなんにもなかった。
石を邸内に据えた時の祀りには、細く白い蛇が一匹
ちょろちょろと入ってゆくのを参列者一同が
はっきり見た。と、祖父が語った。


 
景清堂・景清地蔵・景清目洗いの井戸

平景清が、自分で目玉をつかみ出して洗ったという井戸が丹坂町にあった。
今は、材辰の材木置き場になっている。
景清堂と言うお堂があった。
ここに、立派な五輪塔があり、真ん中の角の石の中にタマシイが入っていたと言う。
何か金目のものが入っていたと見える。
これを土地の役をしていた3人のものが売ってしまった。
この有力者の3人とも、3年もたたぬうちに死んでしまった。

景清堂には地蔵さんが祀って在り、眼病に効くと言うた。
このお堂が無くなって、町の古道具屋に地蔵さんが売りに出ていた。
父がこれを買い取って新薬師寺に奉納した。
今、本堂の中に景清地蔵として祀ってある。
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引き続き吉備塚の明治29年生まれのÑ氏の話し

わたしは、大正5年に38連隊に入り、除隊してから御用商人になり、
主として営繕の仕事をもらった。
将校連中とも付き合いが多く、動員の時などはずっと手伝った。
終戦後までずっと出入りしていた。
吉備塚は、もとは1反ほどの広さで、その近くには、私とこの田もあった。
ドロイケというフジ田が塚のすぐ東にあったが、これは連隊の堤防を築くときに
なくなった。
吉備塚は吉備大明神と言うていた。
特に祭りがあったことはない。
吉備大臣は偉い学者で、勉強しておられる時に、蛙が喧しく鳴くので
その声を封じてしまわれた。
それで、塚の北を西北に流れている細い川を鳴かず川と言う。
塚もこの川に沿って西北に細長い形であった。
今は、塚が低いように見えるが、これは、被服庫を作るために、
東側に土盛をしたためであり、もとは、こんもりとしていた。
連隊を作る時に、土木工事は、京都市伏見の松田組が引き受け、
建築は大林組が引き受けた。
塚の前にトロッコを通して仕事をしたが、あの前へ来ると、
トロッコのひっくり返ることが多く、
また、土を削ろうとすると土方がよく怪我をした。
兵隊でも、土を削ろうとすると怪我人が出るので、気持ち悪がるし、
土方も嫌がるので、手をつけぬようにして、あこだけ空けてある。
牛が寝ていたこともあり、人が登っても別にどうということはないが、
土を削ろうとするとタタリがある。
まん中にヨノミの木が1本あった。
クヌギは近くの百姓が植えたものである。
某中尉が、割木にしたらよい、あのクヌギをやろうと言ったことがあったが、
気持ちが悪いからもらわなかった。
ドロイケの近くや、本薬師町になっているところには、
墓石や石地蔵がたんとあった。今でも掘ったら出てくる。
どうも吉備塚は、静かにしてあかな悪いようで、静かにさえしておいたら
何のタタリもない。


明治38年生まれ、大正10年ごろから25年間連隊本部に
主として勤務しておられたK氏の話し


キビ塚は、もとは円墳のような形で、広さは57坪である。
北側に鳴かず川があり、近くに池もあった。
塚の南側に小さな灯篭(3尺ほど)が立っていた。
4尺4方の方形の石の台があり、3層の石壇で、仏教式のものでなく、
珍しいものだった。
これを埋め込んだ地点をも私は知っている。
この塚は、草をむしっても腹痛が起こる、と言われたし、
事実そうであった。
兵隊でも、ここを犯したために、死んだ者がたくさんある。
連隊副官の長野氏がこの塚の上で軍用犬を飼育したので、
私はこれを制止したことがある。
草を刈っただけ死んだ人を、この近郷で幾人となく知っている。
死んだ人は何人か、名前はと言うことになれば、能登川町の中島氏がずっと詳しいと思う。
ともかく恐ろしい祟りで、さわったもの、犯したものはすべて実際にほどなく死んだ。
兵隊にはここへ近寄らぬように、いつも注意した。
夜間、歩哨にたった兵は、この北側を巡回することを嫌がり、
大抵は避けて南側を通ったものだ。
吉備大臣が清明塚へ毎夜通われたと伝えている。
この通い道を冒して家を建てた人は、フジが入ったり、
ヒッソクしたりした例があまりにも多い。
暮れ六つの鐘が鳴ると、吉備大臣が安倍清明さんのところへ通われ、
その姿を見ただけでも死ぬという伝えがある。
この塚を巡って、玄昉の首塚・胴塚・肘塚・足塚がある。
鏡明神の向かい1丁ほどの地点にある塚が胴か足かを埋めたという。
頭塔もさわれば祟りがあり、このすぐ下に家を建てた家では、
病気が絶えぬとかの不幸が続いた。


 
 
同じく吉備塚について

K氏の話し

 鏡明神さんの怒りで、九州から玄昉の首が飛んできて学芸大学の中に落ちた。
 初めは首塚と言うていたのがなまって、キビ塚と言うようになった。
連隊の工事の時に大林組の人夫が祟りのため3人も死んだので、
取り壊し作業は中止になった。
その後ここをさわる人には必ず祟りがあった。
またここを、吉備大臣の住んではったとこやとも言う。
吉備大臣が勉強してはる時にカエルがやかましいので、
声を封じてしまわれたので、鳴かず川と言う。
下流の鳴川まで行くと鳴いても良いと言われたので、
鳴川と言うのやと言うゆわれがある。

その土地の所有者には何の祟りもなく、塚の上の木の枝を割り木にして、
家に運んでいたのを見たことがある。
今は息子はんの代になっている。
頭塔は玄昉の胴が飛んできたところであり、肘の飛んできた肘塚には小さな堂があり、
クヌギが植えてある。


吉備塚のある場所の所有者であるÝ氏の話し。

祖父の代から現在の吉備塚を含めて1町3反の田を所有していた。
祖父も父も、あの塚には大きな白蛇が住んでいて、
1年に1辺は姿をみせると言っていた。
太さは約1寸ぐらいであったと言っていた。

正月には塚をきれいに掃除して、餅を供えてちょっと拝んだり、
4月3日の野休みには餅を供えたりぐらいのことで、
特別な祭りをしたことはないと思う。
祟りのきつい塚と言うことやし、よその人には祟りがあるのに
わしとこだけには祟りがないと人は言うけれど、まあ、
祖父も父も大事に守をしていたからやないかと思う。

吉備大臣の墓とも言うし吉備大明神とも言う。

田へ仕事に行く父について子供の私もよく行ったが、この塚へは登ったらバチがあたる
と言うてめったに登らせなかった。
登った子供は熱を出したり病気になったりしたからである。

塚の土地を削ったので祟りがあって、死んだ人が閼伽井町にある。
父はこの塚を大事にしていた。
クヌギの枝を掃うぐらいのことはあったが、木を刈ったことはなく、
年の暮れには草をきれいに刈って掃除をした。
土を削ったことはない。

夏など木陰があって涼しいとこやのに百姓でも登って一服したりすることはなかった。
兵隊のラッパ練習でも具合のええとこであるのに、ここを使わなかったし、
土方でもこの土地を避けた。
わたしは白蛇のすがたを見たことはない。
地番は、ドロイケと言う。
この塚のすぐ東に用水の池があり、それをドロイケと言うたからである。
53連隊のでける工事のとき、この辺を買い上げられた。
わたしの小さい頃と、塚の形はほとんど変わっていないと思う。
玄昉の胴を埋めたというところは、鏡の明神さんの向かいにあった。

 
鏡神社のすぐ向かいの老人施設の北側、道路際に
今も一応残されていますが、これが塚だとは全く認識できません。
語り継いでいくことが大切です。
 
奈良大学の卒論で春日大社成立の諸問題を取り上げてから、
もう、6年になりますが、その間、卒論では時間の制限や
枚数制限で取り上げられなかった、いろいろな問題に向き合ってきました。
そうして、高畑町の変遷についてや、社家の問題を調べてきましたが、
 その過程で地元の破石と、それに関係するいろいろな伝承があることを知りました。
ここからは歴史学というより民俗学の分野かもしれません。
しかし、伝承というのは、記録として残していかなければ
やがて忘れ去られるかもしれません。
 伝承には多くの情報が含まれている可能性があります。
そこで今回、このブログにその伝説を書いていこうかと思います。

その学問的な裏付けについては、これから時間をかけて調査していくつもりです。
ですから、こういう話が残っているという事例だけを
取りあえず書き連ねていこうと思います。
そのことについての説明は、まだ出来ないかもしれません。
興味のある方だけ読んでいただけたらと思います。

 こういった話を収集されたのは、鏡神社の先々代の宮司である
梅木春和氏です。
梅木氏は国学院大で折口信夫氏に師事され、鏡神社の宮司職のかたわら
こういった話をコツコツ聞き取り文章にされていました。

その原稿を、この度、春和氏の姪子さんより、私がお預かりしたものです。

この当時春和氏が、お話を聞かせていただいた方は、ほとんど故人となり、
今や地元でも語り継がれていません。

それだけに、こうしてブログに載せ、広く興味のある方にお見せするのは
意義があることかと考えました。
尚、梅木家は春日の南郷禰宜家の筆頭の家で、明治までは代々春日の
常住神殿守を勤めた家柄です。その名には代々、通字として「春」がついています。

最初に吉備塚についてです。


現在の吉備塚全景
 
まだこのほかにも多くの方から、話を採集されていますが
とりあえず第1回として
下高畑町にお住いで、江戸時代から続く油屋だった旧家の
方からの聞き取った話を、そのままを掲載します。
 あくまでも聞き取った話であり史実ではありません。

「吉備塚は吉備大臣の邸宅跡である。
大臣が夏、勉強してはる時に、塚の北にある川でカエルがやかましく鳴いて
読書の邪魔になるので以後鳴くことならぬと、封じてしまわれた。
だから、音無し川と言うようになった。
下流ではやかましく鳴いたので鳴川と言う名になった。
吉備塚は触ると恐ろしい祟りがあると、昔から言われているところである。
53連隊を、こしらえる工事の時に、地ならし作業の下請けを大林組が引き受けた。
その時分はあの辺一帯は田で、あった。
大林組の土方某が塚を崩しはじめた。
1坪ほど掘ったら、細い白蛇が出てきて、その人を睨んだ。
その人はびっくりして、えらい熱をだした。
長谷川旅館で病臥していたが、妙なことをする。
蛇みたいな挙動をするので、これはきっと、蛇の霊に取りつかれたのや
ということになり、滝坂の妙見さんに籠って療養さした。
長いことご祈祷をしてもらったあげく、その人が
「障子を開けてくれ」と言うので開けるとすっかり回復した。
そんな祟りがあったので、地均し作業は中止になった。
これは明治40年頃のことである。
その時の工事の現場監督 を、私の家の裏に住まわせていたので、こんな話を聞いた。
その後、地均しをしようとしても、兵隊が塚に触ると原因不明の病気になったり、
死んだりするので、とうとう塚はそのままになってしまっている。」
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
公民館の行事で普通は非公開の知事公舎を見学してきました。
現荒井知事は昨年まで、ここに住んでいました。
正面はバス通りの裏側、北面して依水園に通じる道に面してあります。
 
知事公舎の裏、南側には三蔵院という塔頭があり、
そこは副知事公舎と奈良学セミナーハウス。
東側、現在の吉城園には摩尼珠院、県警本部長の公舎だった場所には無量寺院
と、この周辺は明治まで興福寺の子院が立ち並んでいたところで、今も土塀が
その雰囲気を残しています。子院の数は100~150にものぼったと言われます。
知事公舎のあった場所には仏地院という塔頭があり、
この門は、新たに建てられたというよりは、その子院の門を
そのまま使っていると思われます。

門をくぐると前庭がありますが、わずか1年前まで知事が住んでいたのに、
もうすでに雑草が生い茂って、かなり荒れた様子です。
前庭を回り込んだところに玄関。

玄関には樹齢千年を超えるかと思われる木の切り株の衝立。
 

  建築面積は671.48平方mの全館平屋で、13室。
この玄関の右側を住居部分として使用していたそうで、
右側部分はかなり内装が手を入れられていますが、
左側は創建当時の趣を留めています。

左側廊下の突き当りがご認証の間と言われる部屋です。
 
残念ながら内部の撮影は禁止されており写真はここまでです。
平屋ということもあり、天井は高く開放感があります。
写真のように、来客用の洋服掛けがずらりと設置されています。

1951年サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約が
国会で批准されましたが、その時天皇陛下は全国巡幸の最中で
時の内閣官房長官剱木享弘氏が天皇の署名を得るため奈良まで
来て夕刻この部屋で批准書にサインをされたという。
戦後の日本の行く末に重大な影響を及ぼした条約のサインが
このかっての都、奈良の地でなされたという歴史のめぐりあわせに
感慨を覚えます。
こう言った現代史の舞台となった建物は、世界を見ても何れも保存され、
観光施設となって公開されています。
現在奈良県では2020年春の開業を目指してこの知事公舎、副知事公舎、
吉城園を含めた一帯を保存と継承し、後世に伝えるため事業者を森トラストに
決定し、レストランやホテルを含めた活用を目指しています。

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奈良市にあった喫茶店『可否茶座 アカダマ』の元マスター.
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