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蘇我氏については、稲目以前にはほとんど記述がなく、稲目が初代である可能性が強く、蘇我氏は渡来人であろうといわれています。

一方乙巳の変のもう一方の中臣氏も渡来系であろうという指摘があり、鎌足自身が渡来人である可能性も排除できません。

ことにあたって古人皇子が発した「韓人、鞍作臣を殺しつ」という言葉。

普通に読めば鎌足が韓人にあたります。また鞍作という姓は渡来人のものです。

 結局その当時政治の中心にいた知識人は渡来人であるということが、その背景にあろうかと思います。

大陸から渡来してきた人々については大きく時代が2つに分類されます。

7世紀後半の百済・高句麗滅亡に伴う朝鮮半島からの亡命者あるいは難民と、4世紀以前の朝鮮半島、中国大陸からの渡来人です。

数の上では4世紀以前が圧倒的で、その数は研究者によっては数万人から数百万と、かなりの開きがありますが、その当時の日本の人口からすれば、驚くべき多数の渡来人が海を渡って日本にやってきたことは間違いありません。

7世紀以降の渡来人は、私は日本国の政治が安定してから、日本に自らの意思で移住してきたのですから帰化人という言葉のほうが適当と考えます。

その来方も平和的と言えます。
ところが4世紀以前は、数からいっても必ずしも平和的にやってきたとは言えません。
無人の荒野ではなく、すでに人々が暮らしている場所に海の向こうから、押し寄せたわけですから、当然のごとく摩擦が生じます。

日本書紀や古事記にも渡来人に関する多くの記述はありますが、平和的な移住者として書かれていますが、これは7世紀以降の渡来人に関する記述です。

風土記では違います。例えば新羅の王子である天日桙が葦原志許命(大国主)と争って上陸したとか、神前郡では伊和大神と軍を発して相戦かった。

また新羅の客人が地元の石神の玉眼を抉り取り、怒った神によって全滅させられたとか、

上陸、通過にあたって地元民と多くの争いがあったことを書いています。

古代の渡来人は我が国に技術、芸術、思想など平和的な文化交流をした一面、倭人社会に緊張と不安を引き起こし、倭人との間に多くの確執を起こしました。

記紀の編集にあたっての大方針は天皇の万系一世の由緒をただすことであり、ことさら渡来人との騒乱を取り上げることはありません。

そのことにとらわれない風土記は、その当時にあっても、もはや伝承でしかない民間の古い記憶をそのまま拾い上げて載せていると考えられます。

なにが言いたいかと言えば、弥生時代の倭国の騒乱の大きな原因の一つが渡来人であり、

 巻向に突如として出現した都市が邪馬台国であるとすれば、豪族に擁立された卑弥呼が都を大和に置いた理由が大陸に近い九州から渡来人を避けるためと考えられるということです。

いつの世も国がまとまるのは外敵の脅威です。都塚古墳から一挙に邪馬台国まで思いをはせてしまいました。



 

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