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ヤマト王権についての奈良大学の考古学特殊講義が終了しました。

大学での講義はどんな感じのものか、期待と不安を持ちらながらの受講でしたが、半期15回の授業を終わって、半ば期待通り、半ば物足りないと言った感じです。

日本書紀、古事記と言った日本の文献資料は絶対年代が特定できないので中国あるいは朝鮮半島の資料から、1~3世紀の日本列島の政権を見ます。

そこでまず、例のAD57年の光武帝の金印が登場します。

次に後漢書の倭国王師升の遣使の記事。いずれも年代がはっきりと特定できます。

従って九州には1~2世紀にすでに中国に使を送る奴国、末廬国、イト国などの国が存在したわけです。

一方大和ではまだ弥生時代に分類される段階で、九州とは相当な差がありました。

やがて大和では唐古が中核となる農業集落として登場します。

そして弥生の終わりぐらいには大和は高市、十市、層富、といった3つぐらいに集約されていきます。

ところが、3世紀の初めごろ突然巻向に政治的中心となる都市が出現します。

要するに弥生時代の発展形ではなく、まさに突如として巻向が登場するわけです。

寺澤先生はそれを、伊都国を中心とした吉備や讃岐、伊予、播磨などの連合国家と位置付けます。

連合国家がその都を大和の巻向に置いたというわけです。

中心は伊都国です。ですから伊都国が大和へ遷ったと言ってもいいと考えます。

そして、巻向はその連合国家の都のおかれた場所であり、その場所は邪馬台国と呼ばれた。

倭の都するところが巻向であり、邪馬台国=倭ではなく、倭の中に都をおいた邪馬台国があり、そこにヒミコが居たというわけです。

授業ではその理由を考古学的な史料から裏付ける作業が語られました。

いずれも納得はできます。

しかし、私にはまだ納得できない部分が多く残り、消化不良と言った感じです。

結局その消化不良の部分は自分で勉強して補っていくしかないようで、大学の授業と言うのは正に、そこに至る道筋を示すものと言うことでしょう。

 

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