宗家の入れ替わりがあった。
この事については、そう異論はないと思います。
日本書紀には記述のある、仏教受認に対する争い、その中で物部守屋の側にあった中臣勝海の死。
また家伝や系図に記載された中臣氏の始めが黒田の子常盤から始まるとする記述。
こういった事実が、中臣氏の家系の断絶を示唆しています。
中臣黒田は鹿島から河内に進出してきた中臣氏の別系であり、勝海系とは別系統の中臣氏として存在していた。
この黒田の子常盤が河内の豪族塩屋連と婚姻関係を結びます。
おそらく、鹿島出身の中臣氏が畿内進出の足掛かりとして、塩屋連と手を結んだと考えます。
この時点で常盤は中臣塩屋連という復姓であった可能性があります。
中臣常盤は系図によれば欽明朝の人であると言います。
中臣氏系図ではこの常盤が中臣氏の始まりであるとします。
日本書紀に記述のある遥か昔の中臣鹿島大連は別としても、その存在は間違いないと思われる仏教受容の争いで名前が出る、鎌子、磐余、勝美の存在を全く無視して、ここに中臣氏が始まるとする記述は不自然です。
常識的に言えば、自分の家系はできるだけ古く書きたいのが当然です。
で、その子可多能祜(祐)は物部氏と婚姻します。
おそらくこのころ、ヤマトに入ったと考えられます。
またこの結婚で、塩屋を捨て、中臣氏に替わっていたかと。
これが敏達朝のころとされます。大体580年頃かと。
次が、御食子、前事奏官兼祭官、実在は間違いない人物です。推古、舒明朝に仕えたとされます。
7世紀前半です。所謂物部戦争により、物部氏、中臣勝海が滅びた後です。
この御食子、あるいはその父、可多能祜の代に中臣宗家の入れ替わりがあったと考えます。
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