毎日本当に暑いです。
私のと言うか、かって子供の部屋だったところを、私が勝手に勉強部屋にしたのですが、2階にあって本当に暑い。
でも、それぞれの部屋でクーラーをつけるなんて、贅沢すぎてこの節電の世の中できません。
と言うことで暑さを言い訳に、ここしばらくまったく卒論が進みません。
ある程度道筋は見えてきましたが、まだ霧の中。
はっきり姿が見えません。
ここまで、わかったというか、推論は。
中臣氏が河内の出自であることはまず間違いありません。
1番顕著な例が、枚岡神社の存在です。
氏神と言うのは農業に基づいています。
それだけに所在地やその周辺地と密接な関係があり他所へ移動することはありません。
その他に「中臣寿詞」とかも、河内説を補強しています。
じゃ、鹿島はと言うと、前に書いたように、中臣氏は物部戦争で破れています。
中臣勝海はその結果慙死しています。
そこで、この河内の中臣氏本流はいったん途絶えた。
しかし、祭礼を司る職掌柄、中臣氏は必要とされたため、鹿島から中臣氏が呼び寄せられます。
これが中臣黒田です。
黒田は中臣氏系図によれば、中臣氏の祖とされます。
しかし中臣氏はその仏教の容認をめぐる争いで、日本書紀に名前が出てきています。
ところがこの黒田は日本書紀には名前はありません。
要するに、中臣本家が滅びた後、鹿島から出てきた新興氏族だったわけです。
しかし、天皇家の祭礼を司る大切な役目があり、徐々にまた力を伸ばしてきます。
黒田の子、常盤その子、可多能祐、その子御食子が鎌足の父です。
御食子は前奏事官として、宮廷で重きをなしています。
その子鎌足については書くまでもないと思います。
以上のように、鎌足の先祖は鹿島から出てきた中臣家であったわけです。
しかし、そのことは平安時代になればもうわからなくなっています。
大鏡の時代にはそこで、鎌足が鹿島出身であると間違えて書かれるにいたった。
これが、大筋です。
でも想像では論文は書けません。
この事をある程度裏付ける必要があります。
中臣氏の宗家の入れ替わりにつては何人かの学者が認めています。
そしてそれが鹿島出身であろうと言うことを主調する論文もあります。
しかし決定打はありません。
証拠はなくても、なにかうかがわせるような話を今探しています。
それさえ見つかれば一気に完成です。
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