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はじめに」

春日社は社伝によれば、奈良時代、称徳天皇の神護景雲二年(七六八年)十一月九日に創建されたとある。

祭神には東国から武甕槌神(常陸国・鹿島の神)・経津主神(下総国・香取の神)を迎え、これに天児屋根神(河内国・枚岡の神)・同比売神を配して四神殿一体の春日神社が構築された。鹿嶋・香取の神は一対のものであり、天児屋根神と比売神も一対で、春日社における四神はそれぞれ、藤原氏と中臣氏の二本立て()体制を示していると考えられる。

本論では、まず創建とされる神護景雲二年の根拠についての考察をし、次いで祖神たる天児屋根命・比売神は当然として、何故常陸国より鹿島大神、下総より香取大神を祭神として請来し、藤原氏の氏神として春日大社が成立するに至ったかについて、中臣氏という氏族を通じて考察を進めていく。

 

 

一、春日社成立の時期について

 

1 春日社創建の前史

春日と言う地名が文献に登場する早い例は、『古事記』の開化天皇の段に「春日伊邪河宮」と見え、『日本書紀』の開化天皇元年十月の条に「春日之地」の「率川宮」、同六十年十月の条に「春日率川坂本陵」とみえる。

ついで『日本書紀』の景行天皇五十五年二月の条には「春日穴咋邑」、『日本書紀』允恭天皇七年十二月の条には大和の「春日」の櫟井とある。  

これらのことから、『古事記』、『日本書紀』における春日の地域は、いわゆる春日山麓の春日野台地のみを指すとは限らず、率川の流れる春日野台地から、古市さらに櫟本におよぶ地域をも意味していたことが知られる。

ただ、春日野台地を中心とする地域を「春日」と限定している用例もある。『日本書紀』武烈天皇即位前紀の影媛の悲歌。

 「石の上 布留を過ぎて 薦枕 高橋過ぎ 物多に 大宅過ぎ 春日 春日を過ぎ 妻隠る 小佐保を過ぎ 玉笥には 飯さへ盛り 玉盌に 水さへ盛り 泣き沾ち 行くも 影媛あわれ」

この歌では「春日」は春日山麓の春日野台地の狭義の春日を示す。

春日の地に大和王権とかかわりのある春日県があったことは、『日本書紀』の綏靖天皇二年正月の条の別伝に、「春日県主大日諸女糸織媛也」と記されていることにも反映されている。

その春日県がやがて発展して、春日の国と称されるようになったと思われるが、この春日の地域に和珥氏の勢力が伸張していたことは『古事記』の雄略天皇の段で、

大長谷若建命(雄略天皇)が丸邇(和珥)佐都紀臣の娘の袁桙杼比売を妻どいして「春日に幸行」した説話からも推察される。

『日本書紀』継体天皇七年九月の条の古歌謡

「八島国 妻まきかねて 春日の 春日の国に 麗し女を ありと聞き手 宜し女を ありと聴きて・・・・」

この歌は勾大兄皇子(のちの安閑天皇)が春日皇女を妃に迎えた折の歌として位置付けられている。

『日本書紀』の歌に「春日国」が読み込まれていることが注目される。

『古事記』や『日本書紀』の伝承では、和珥氏出身とする娘が、開化、応神、反正、雄略、仁賢、継体の各王者の「后妃」になったことを述べているが、その和珥氏や和珥氏の娘の生んだ王子・王女に「春日」を称するものが少なくない。     

『日本書紀』の雄略天皇元年三月の条には、大泊瀬幼武大王(雄略天皇)の「妃」として「春日和珥臣深目」の娘が春日大娘皇女を生むとの伝えがある。

ここでは「春日和珥臣」と春日を冠する複氏姓となっており、生まれた王女も春日を名乗っている。

春日臣は、添上郡春日郷のあたりを本拠とした氏族で、のちに和珥氏が春日郷周辺に勢力を伸張して、「春日臣」と「和珥臣」との間には同族的繋がりが生じ、「春日和珥臣」というような複氏姓が形づくられたのであろう。

春日の地域には、和珥氏や春日臣の他、和珥氏から派生した小野氏の勢力も挙げられる。

さらには、アベ(安部、安倍、阿倍、阿部)氏の存在を指摘し、春日の地が、アベ氏から中臣(藤原)氏に委譲されたとする()もある。

また渡来系の人々もあった。

『日本書紀』の欽明天皇元年二月の条には、「百済人己知部投化。置倭國添上郡山村。」と記す。

この「山村」は『和名類聚抄』の山村郷あたりで、奈良市山村町とその周辺である。

そして『日本書紀』は「今山村己知部之先也。」と述べている。

「今」とは書紀編纂の段階を指し、七世紀後半から八世紀の前半のころにも、百済系の「山村己知部」の存在したことがわかる。このように、いわゆる春日の地には藤原氏によって春日社が祀られる以前に、和珥氏、春日氏、安部氏のほか、渡来系の氏族などの居住が確認されている。

春日社成立以前の祭祀遺跡は、調査の手が加えられたものはまだ少ないので、必ずしもその具体的な内容はわからないが、磐座に属するものが大部分を占め、大小さまざまである。

春日社の本殿楼門前にある「赤童子出現石」と言われるものも小規模な磐座であり、御葢山の山頂付近や山麓にも巨石が散在しており、これらも磐座と考えられる。

例えば、山麓の巨石群の中で北端にあるものは石荒神社と呼ばれている。

水谷神社の本殿直下には、漆喰で塗り込められた巨石群がある。また御葢山の東半部中腹に、帯状に連なる列石があり、御葢山の東半分にめぐらされていることから、山頂を区画したもののようであり、これも広い意味での磐境と解釈している。

御葢山の列石のような壮大な規模の構築物の存在は、かなり大きな勢力を持っていた豪族が春日の地を祀りの場としていたことを間違いなく示すが、それが何時のことか、誰によって行われたかは残念ながら確認できない。

また平城遷都後も、春日の地において、神祀がなされていたとみなしうる史料がいくつかある。

御葢山の初見史料である『続日本紀』養老元年二月壬申朔条に、

「遣唐使祀神祇於葢山之南」、

同じ『続日本紀』の宝亀八年二月戌子条にも

「遣唐使拝天神・地祇於春日山下。」とあり、遣唐使の発遣に際して、航海の安寧を祈るため天神・地祇を春日の地で祀ることは、恒例の行事として行われていたと考えられる。

『万葉集』の巻三のなかに収められている佐伯宿祢赤麻呂と、ある娘子との間に交わされた問答歌に

 ちはやぶる 神の社の無かりせば

    春日の野辺に 栗まかましを(四〇四)

  春日野に 栗蒔けりせば 鹿待ちに

     継ぎて行かましを 社し留むる(四〇五)

 この歌からも春日野にすでに神を祀る社があったことがうかがえる。このように古くから春日野に於いては神祀りが行われていたのは間違いないが、これが直ちに春日社と結びつくものではない。

『万葉集』巻十九,四二四〇・四二四一に、

春日ニテ神之日、藤原太后御作歌一首。即賜入唐大使藤原朝臣清河

大船に 真楫貫き この吾子を 韓国へ遣る 斎へ 神たち

大使藤原朝臣清河歌一首

  春日野に 斎く三諸の 梅の花 栄えてあり待て 還り来るまで

勝宝三年(七五一)の作と思われるこの二首の歌も春日社についてではなく、御葢山の南麓において遣唐使の無事を天神・地祇に祈った祭礼について記したものと思われる。

『延喜式』に大和国添上郡三十七座の社のなかに、

  春日神社

  春日祭神四座並名神大、月並、新嘗

とあり、後者が春日大社(四神)であることは間違いないが、前に書かれている「春日神社」は。おそらく春日の地主神を祀る社と考えられる。九世紀にいたってもなお、春日の地に、春日四神以外に地主神を祀る信仰が続いていたことがわかる。

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