3 春日社成立の文献資料
春日社の起源で、確実な文献資料としては、永仁三年(一二九五)に春日神社権預の中臣祐永が著した
『春日社私記』に「天平勝宝七年官符ニ云ク、春日社四所、紫微中台祭、件祭入二宮神例一」
として従来,,光明皇后が祭られていた「春日社四所」がこの年に「官神例」すなわち官社の班に加えしめられたことを布告したものがあり、ここから、これより以前に春日社が発祥していたことをうかがわせる。
また正倉院所蔵の『東大寺山堺四至図』で天平勝宝八歳(七五六)六月九日と銘記された図において「神地」と記された一画が、現在春日大社の南門を含む回廊によって囲まれた地と一致しており、この「神地」が春日大社そのものを指したものと考えられる。
この図は建物が存在すれば必ず図示しており、この「神地」には斎場のみで、神殿などの設備は存在しなかったことも知られる。
『続日本紀』天平勝宝二年(七五〇)二月に
孝謙天皇の「幸二春日酒殿一」と行幸の記事があり、
これを以って春日社がこの時期に既にあったという説もあるが、
酒殿は弘法太師空海のいわゆる『御手印縁起』や『御遺告』の一つの『太政官符案幷遺告』、一名『高野絵図巻』などに収載する「高野山図巻」に天野の丹生・高野両明神の山下の三谷の「国司幷国内上下捧幣所」のことを「丹生・高野酒殿」とか「三谷酒殿」と記しており斎場(祭場)の意味と考えられ、
この春日酒殿も臨時の施設である可能性が高い。
『日本書紀』崇神天皇六年に、大和の笠縫邑に天照大神を祀ったが、そのときヒモロギ(神籬)をたてたとある。
笠縫邑は檜原神社に比定されているが、今も檜原神社には拝殿も本殿もなく、三ツ鳥居だけがあり、三輪山が御神体となっている。
古代に於いては、その鳥居さへ不要であり、ヒモロギは、神が降臨する場所を常緑樹で囲うだけで、祭りが終わると即刻、取り壊すのが常例であった。
後に祭場に仮小屋を建てるようになったが、それも祭りの直後には取り壊したが、やがて仮小屋をそのまま残しておくようになった。
それがヤシロの原型である。
「やしろ」は屋代。社屋の代わりの意から出発してきたもので、おりおりの祭りに当たって神は来臨・影向せられるものであり、
春日社は本来の社号は『延喜式神名帳』にいう「春日ニ祭ル神(四座)」であって、それは影祀・遥祀、
ようするに遥配所であり、祀りの執行にあたって鹿島・香取・枚岡・相殿の四所明神の降臨・影向を乞うたものである。
『東大寺山堺四至図』にある神地は、まさに「やしろ」の場であり、神祀りをする空地である可能性が高い。
このように社伝にある神護景雲二年以前に、春日社の存在がうかがわれるが、それでは『古社記』に言う神護景雲二年は何を示すのであろうか。
『三代実録』元慶八年(八八四)八月二六日申寅の条に、
「新造二神箏二面一、奉レ充二春日神社一。以二神護景雲二年十一月九日所レ充破損一也」
とある春日大社の祭器として奉納された神琴二面が破損したので、この元慶八年八月二六日に新たに製造して奉納したという記事は、少なくとも神護景雲二年十一月九日に祭が執り行われていたことを示す確実な証拠であるが、そればかりでなく春日祭の執り行われた最初を意味するものと考えられる。
この「神琴二面」は、春日祭には必ず使用されなければいけない大切な神具・祭具であり、容易に取り換えてはならないものである。
およそ神社の祭礼のうち、何が一番重要であるかと言えば、むろん、例大祭であり、例大祭は、一般に、当該神社の創立の日を記念・慶祝して催される。そして春日社の例大祭は春日祭である。このことから時風の記文にある。
「神護景雲二年 申戊 十一月九日 申戊 寅時」の、この吉き年の吉き月の吉き日の吉き時を以って、称徳天皇が託宣を蒙り、「山本南向」に「地形相」し「以終、宮柱立、御殿造了」と社殿が新築落成せられ、以前より斎場あるいは臨時の施設としての仮神殿に対して、永久的建造物としての神殿が新築落成され、これが春日社においての創立の時とされたと解釈するのが妥当である。
春日祭において奏上される『延喜式』巻八、祝詞式にみえる「春日祭祝詞」が神護景雲二年十一月九日の日付を持つ『神祇官勘文』の「春日御社祭文」と細部の異同はあるもののほとんど同一であることも、春日祭が創立祭であることを現わしている。
これに対し義江明子氏は、その語句の詳細な検討の結果、「祭文」が神護景雲二年当時のものでなく、平安期の策命・告文の知識に基づいて、全体の体裁を『延喜式』所載の他の祝詞に合わせ整えている可能性を指摘し、また『春日社古社記』の「時風記」が真の奈良期の所伝ではありえないとし、この「祭文」が社家で後世に作られたものと指摘し、その上で春日社の成立を奈良末~平安初期に擬している。
しかし、字句の違いは書写の過程での変遷であり、その時代の、筆者の知識によって文章が加筆訂正されることは自然なことであり、『時風記』においては特に、春日社内部の社記の類であり、代々社家によって、加筆修正をくわえていることは前述の通りである。
よって、それを持って後世の作であるというのは当たらない。
およそ社寺の創立の時期に於いて、鹿嶋・香取の両神宮の創設が神武期であるとするように、できるだけ古く表記するのが常であり、春日社に於いてのみ、その創立を、あえて神護景雲二年にまで引き下げるべき特段の理由はない。
また『三代実録』元慶八年(八八四)八月二六日申寅の条の記事を疑うべき理由も見当たらない。
新抄格勅符抄の大同元年(八〇六)牒のうちに、「春日神 廿戸 常陸国鹿島社奉寄」とあり、天平神護元年(七六五)に鹿嶋神宮が封戸を春日神社にさいたことが書かれているが、これも春日社社殿の建設に合わせたものと考えられる。
同じく新抄格勅符抄収、延暦二十年(八〇一)九月の官符において、「件神封物、割充如レ前」、「自余雑物一同二前符一」とこの処置が前例の踏襲であることと同時に、天平神護元年の封二十戸の廃止を載せていることからも、天平神護元年より引続づいた処置であることを示している。
神護景雲二年という時期には、天平宝字八年(七六四)の藤原仲麻呂の死、
天平神護元年の和気王の死、淡路廃帝の死、道鏡の太政大臣禅師への任命、また孝謙天皇に後継者がなく、藤原氏の血統が絶える可能性等の、その時期に於いて、新興の氏族である藤原氏として、氏族の結集を図る必要に迫られる出来事が多く、その精神的紐帯として、最後の藤家の血を引く称徳天皇の勅命により、氏の長者である永手によって、氏神社を祀るべき十分な理由が存在する。
そのことは義江氏の指摘の如く、春日祭祝詞が、春日の神の加護によって、藤原氏及びその血を引く諸王が朝廷における高位を保持し、藤原氏を発展させていくようにという祈願が込められていることからも理解される。
また、平城京からの長岡京への遷都にあたっては大野原神社。平安京に移っては、吉田神社が作られ、平安時代に入って藤原氏があえて、奈良の地に氏神社を創建しなければならない理由は存在しない。
興福寺との関係でいえば、後の神仏習合時代ほど、強い結びつきはなく、氏寺は各氏族に唯一のものでないことは、中臣氏にしても氏寺は国足の法光寺、大島発願の栗原寺あり、二章でのべる蘇我氏の例でも明らかであり、それが理由とは考えられない。
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