二章、中臣氏と祭神について
1、中臣氏の名義について
この章では、何故鹿嶋・香取の神が藤原氏の氏神とされるかについて、中臣氏という氏族を通じて考察した い。
この場合「氏」とは、古代において祭禮・居住地・官職などによって結合した同族団または
その連合体であり、 大和政権では官職・地位はウジによって世襲され、土地、人民はウジ
が領有し、ウジ名は天皇が賜与するも のである。
国造・郡司クラスの地方豪族は「氏」のなかにはいらないのが一般用語例である。
通常、支配者と隷属者の関係にある中央豪族と地方豪族とが、同じ祖先をいただく本家
と分家との関係に秩 序されるが、中臣氏を上につけて称するいわゆる中臣の複製氏族の
多くは中臣氏の勢力下にはいった地方 豪族が、中央の中臣氏の保護を求めるために中
臣氏の支流氏族の形をとって複姓を称したものと思われる(⑿)。
中臣氏の名義については、大別すると職名説と地名説の二説がある。
① 地名説でナカトミをナカツオミの音韻変化とし、ナカは地名、ツは助詞、オミは原始的カバネとする説
② 職名説でナカトミの氏名を職掌より由来すると言う説である。
①の地名説では太田亮氏
はナカの地を、豊前国仲津郡、常陸国那賀郡を挙げて(⒀)いる。
地名説は、臣のカバネを持つ氏族は、氏名が出雲臣・葛城臣のように地名によっているこ
とから、「ナカの臣」 と言う考え方が成り立つことは考えられるが、中臣氏は連姓氏族であ
るから、中連でよかったことになる。
これについては天皇の政治の一つの仕事として呪術祭禮があり、中臣氏はそれについて
の事務をつかさどっ ていたため朝廷の重臣として力をつけ、祭礼担当氏族として権力を手
に入れた。
そのため天皇の祭官として、高天原で活躍する皇室の祖先の神々と神話の中で結び付く
必要に迫られ、その 遠祖を高天原の神とせざるを得なくなって中臣氏は連姓氏族となった。
それ故初めは、中臣という臣姓氏族たらんとしたが、欽明朝ごろにおける最初の神代の物
語の編纂過程に於 いて、中臣氏の祖が皇室の祖先神と密接な関係を結ぶ物語が作られ
はじめ、神の子孫としての地位が確定 していったので、やむなく中臣の下に連と言う姓を
つけ、複姓のようなありさまになったのであろうという解釈(⒁)がある。
地名説の、豊前仲津郡説の前提には神武東征説話があり、この事について実証的な根拠
はなく、また豊前 仲津郡、常陸国那賀郡に中臣郷があるとか、
中臣部が存在するといったことは中臣部の分布を示すものでは あっても、
畿内の中臣連との関係は説明できない。
ただ『日本書紀』景行紀に豊後直入郡で神祀りした神が直入物部神・直入中臣神という記
述があり、古くか らの中臣氏と物部氏の関係を窺わせる。『古事記』神武編には神八井耳
命が「常道の仲國造の祖也」との記 述があり、多系中臣氏との係わりが疑われるが、これ
も立証は難しい。
中臣寺の存在から大和説もあるが、各氏族の氏寺は七世紀中葉以降各氏族が律令官人
化するに従い、本 拠地を離れ居住移転を繰り返し、それにつれ氏寺も移転する例は枚挙
にいとまがない。
また、氏寺は氏神と違い、一氏に一ヵ寺と限らず、また氏全体を代表するものではない。
例えば蘇我氏の場合、大化前代に建立された寺院は、
敏達十三年(五八四) 「於二石川宅一、修二治仏殿一」、
推古四年(五九六)に法興寺、舒明六年(六三四)豊浦寺、舒明十三年(六七一)に山田寺
と四ヵ寺ある。
このように、寺はあくまで個人ないし「家」が中心となり、氏全体に信仰が及ぶものではない。
②の職名説の根拠は『群書類従(⒂)』「中臣氏系図」である。
この資料は延喜六年(九〇六)に撰進され、その中の天平宝字五年(七六一)に撰氏族志
所の宣により勘造さ れた本系帳で、次のように述べられている。
高天原初而。皇神之御中。皇御孫之御中取持。伊賀志桙不レ傾。 本末中良布留人。
称二之中臣一者。復旧之由。惟其義也。
ここでは神(皇神)と天皇(皇御孫)との中をとりもつ義とされている。
また『家伝』(群諸類従)では
其先出二自天児屋根命一也、世掌二天地之祭一、相二和人神之間一、仍命二其氏一曰
二大中臣一。
ここでは「人神の間を相和す」ことから中臣と命名されたとしている。
『家伝』下にも
「世々天地を祭を掌り、神人の間を相和す、仍つて其の氏に命じて中臣と曰ふ」としるす。
中臣氏の伝承で、允恭紀にみえる中臣鳥賊津使主が、天皇と弟媛(衣通朗姫)との仲介を
する話、皇極紀に みえる中臣連鎌子が中大兄皇子と倉山田臣の女の仲立をする話、
大職冠伝の天智天皇が大海人皇子の狼 藉に怒って太皇弟を害せんとしたのを、
鎌足が諌止した話がみられるが、つまり鎌足は、天智天皇と大海人 皇子との間に立って、
仲裁的役割を演じたことになる。
この話は史実と思われるから、中臣氏の祖が神と人と の中を取り持つという物語は、
鎌足の時代か、あるいはそれに近い時期に作為されたと志田(⒁)氏は主張する。
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