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最近このブログを通じて知り合った方から、平城坊目遺考を送って頂き、
見ていると、木魂塚に関して面白い記事がありました。
前回木魂塚は武蔵塚とも言われ、安世卿の墓と言われると紹介しましたが、
上記の平城坊目遺考に一説として、

文武天皇の時代に武蔵出身の小野美作という人がいて、
墓を武蔵に作ることを遺言して亡くなったにもかかわらず
京の地に埋葬したため祟りをなし、そこで武蔵国より土を取り寄せ
墳を築いた。これが木魂塚(武蔵塚)である。
そして武蔵塚は頭塔である。
頭塔が武蔵塚という説は首肯しがたいですが、木魂塚の由来としては
面白い説です。
東京の市谷あたりに逢坂という地名があり、その由来としてこんな話があります。
昔、小野美佐吾という人が武蔵守となり、この地にきた時、
美しい娘と恋仲になり、のちに都に帰って没したが、
娘の夢によりこの坂で、再び逢ったという伝説に因み、
逢坂と呼ばれるようになったという。

 

 さらに、次の話も伝わっているそうです。


 奈良時代の昔、都から小野)美作吾(みさご)という人が武蔵国の国司として赴任しました。
そこで、美しいさねかずらという名の娘と出合い、二人は相愛の仲に。
美作吾に帰還の命令が出て、やむなく都に帰って、死亡しています。
さねかずらは美作吾の霊とこの逢坂の上で再会しましたが、生き甲斐を失い、
坂下の池に身を投げて死んだといいます。

奈良若草山山麓にむさし野という名の旅館があります。
そこのホームページに武蔵野の由来として、

平城京に都がある頃、現在の東京のむさし野から小野美作吾と言う方が、
宮使いに奈良に来られました。
小野美作吾は愛する美しい妻と祝言をあげたばかりで、
離れて暮らすことが耐えられませんでした。
妻を毎日想いだし悲しみに暮れているうちに、
流行り病にかかり奈良の都で命を落としてしまったのです。
共の者に、私の亡骸は必ずこの地から、東京のむさし野へ返してくれるよう頼んだのですが、
余りに遠いので、この若草山の麓に葬りました。
小野美作吾の霊は怒り、この付近を祟り幽霊となって彷徨いました。
 それを恐れた住民達が、この地を“武蔵ヶ原“と改め、
霊の怒りを鎮めたといわれております。
 
 
出典は江戸時代に書かれた江戸の地誌
「紫の一本」 天和2(1682)年成立
(むらさきのひともと)戸田茂睡著
であることが分かりましたが、平城坊目遺考の話では奈良に
そして東京に同じ話が伝わっており、なかなか興味深い話ですので紹介しておきます。

追記

 武蔵塚は武蔵守である良峯安世の墓説。
 小野美作(吾?)の墓説を紹介しましたが、
その後、いくら探しても、良峯安世が武蔵守に補任された事実は見つからず。
また、奈良時代を通じて小野美作という人物が武蔵守であった事実も確認できませんし、
存在したという記録も見つけることができません。

今後も調査は続けますが、今まで紹介した伝説はどこから生まれたものか、
謎は深まるばかりです。
 
 
  

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