category:From マスター
前に、四恩院にあった浮雲神社の紹介をしましたが、
その際、四恩院の十三重の塔の礎石が公会堂の庭に現存すると
書きましたが、その時点では確認していなかったので、日を改めて
公会堂の庭に行ってきました。
その前に、東大寺の参道の南の交差点南東の角にある
木魂塚の写真を撮ってきました。
人力車の客待ち場所になっており、普段人の多い場所なのですが、
今回はコロナ自粛で、誰もいなくてゆっくり写真を撮れました。
小玉塚ともいわれています。
この塚と言っても、果たしてこの石碑が何時建てられたものか、
塚と言うものがあったのか私にはわかりませんが、
ともかくこの塚の上に乗って東大寺南大門の向かってコダマと叫ぶと
奇なことが起こるとか、願い事を叫びコダマが返ってくると願いが叶うとか
言う伝承があるそうです。
宿曜を祀った陰陽遺跡であるという説。東大寺に悪神・鬼神の入るのを防ぐ
鬼門除けであるとも言います。
さらに、平安時代の桓武天皇の皇子良峯安世卿の墓所で、武藏塚と号すると記した
ものもあります。
この辺りを安世卿が武藏守であったことから武藏野と称するとも。
良峯安世は桓武天皇の皇子ではありますが母親が百済永嗣と身分が低く、
親王宣下を受けられず、後に臣籍降下して良峯安世となりますが、
最後は大納言までなり、天長7年(830)46歳で亡くなっています。
百人一首にとられた僧正遍照の父で知られています。
この辺り一帯をかつては野田と称し、春日大社の禰宜の住まいするところでした。
参道の南を南郷、こちらが北故、北郷と称し、大中臣系の社家が住まうところでした。
但し、南郷、北郷の区別は当初だけで、江戸時代には両者は、混在して
住まうようになり、高畑が社家町としては栄えました。
現在の公会堂の庭園は、ほとんど四恩院の敷地だったところですが、春日大社所蔵の
北郷屋敷地図によれば、その北側には陰陽師の幸徳井家の広大な屋敷が描かれています。
この木魂塚の伝説には陰陽師が関わっている可能性が高いと思われます。
さて四恩院ですが、コロナ自粛が続く中、公会堂の庭園に入れるか心配でしたが、
一応木戸は開いていました。
庭園は、人っ子一人いず、ゆっくり散策することができました。
目的の礎石は、庭園の東南隅にありました。
四方に4つずつ整然と並んだ礎石のほか、中央の塔心礎かとも思える
やや大きめの礎石。
他にもいくつか、礎石らしい石が確認できます。
ただ、土壇は見られず、石も不ぞろいで、あまりに整然としているのも
不自然で、並べなおしたものかもしれません。
公会堂庭園には、他にも、四恩院のものであったと思われる礎石が
いくつも敷石に転用されています。
ただ幾つかの石は創建当時の石である可能性が高いと思われます。
庭園を囲むフェンスのすぐ外には、浮雲神社が見えます。
四恩院は白河法皇の御願で創建された、浮雲峰の春日大明神を
遥祀する堂舎であり、浮雲神社を鎮守社とします。
創建は保延3年(1215)十三重塔を中心として、表大門、裏門、
衆会所、鐘楼、法華堂、等の建物があったようで、
規模は方一町であったとされます。
現在の公会堂の庭園がすっぽりと入る大きさです。
文明12(1480)年焼失後、同17年に再建されますが、
明和4年(1767)に十三重塔以下堂宇が焼失して以後
再興はされませんでした。
明治の廃仏毀釈後は、荒れるに任せ荒蕪の地となっていましたが、
その場所に明治22年第68国立銀行、第34国立銀行両行の集会所として
奈良倶楽部が建てられ、後に、その建物が県公会堂となり、
昭和56年まで存続します。
私も何度か公会堂は行っており、同窓会も、開催した記憶があります。
老朽化はしていましたが、木造の趣のある建物でした。
庭園の位置は当時とは変わっていないようですが、
内容は随分と変わったように思われます。
その際、四恩院の十三重の塔の礎石が公会堂の庭に現存すると
書きましたが、その時点では確認していなかったので、日を改めて
公会堂の庭に行ってきました。
その前に、東大寺の参道の南の交差点南東の角にある
木魂塚の写真を撮ってきました。
人力車の客待ち場所になっており、普段人の多い場所なのですが、
今回はコロナ自粛で、誰もいなくてゆっくり写真を撮れました。
小玉塚ともいわれています。
この塚と言っても、果たしてこの石碑が何時建てられたものか、
塚と言うものがあったのか私にはわかりませんが、
ともかくこの塚の上に乗って東大寺南大門の向かってコダマと叫ぶと
奇なことが起こるとか、願い事を叫びコダマが返ってくると願いが叶うとか
言う伝承があるそうです。
宿曜を祀った陰陽遺跡であるという説。東大寺に悪神・鬼神の入るのを防ぐ
鬼門除けであるとも言います。
さらに、平安時代の桓武天皇の皇子良峯安世卿の墓所で、武藏塚と号すると記した
ものもあります。
この辺りを安世卿が武藏守であったことから武藏野と称するとも。
良峯安世は桓武天皇の皇子ではありますが母親が百済永嗣と身分が低く、
親王宣下を受けられず、後に臣籍降下して良峯安世となりますが、
最後は大納言までなり、天長7年(830)46歳で亡くなっています。
百人一首にとられた僧正遍照の父で知られています。
この辺り一帯をかつては野田と称し、春日大社の禰宜の住まいするところでした。
参道の南を南郷、こちらが北故、北郷と称し、大中臣系の社家が住まうところでした。
但し、南郷、北郷の区別は当初だけで、江戸時代には両者は、混在して
住まうようになり、高畑が社家町としては栄えました。
現在の公会堂の庭園は、ほとんど四恩院の敷地だったところですが、春日大社所蔵の
北郷屋敷地図によれば、その北側には陰陽師の幸徳井家の広大な屋敷が描かれています。
この木魂塚の伝説には陰陽師が関わっている可能性が高いと思われます。
さて四恩院ですが、コロナ自粛が続く中、公会堂の庭園に入れるか心配でしたが、
一応木戸は開いていました。
庭園は、人っ子一人いず、ゆっくり散策することができました。
目的の礎石は、庭園の東南隅にありました。
四方に4つずつ整然と並んだ礎石のほか、中央の塔心礎かとも思える
やや大きめの礎石。
他にもいくつか、礎石らしい石が確認できます。
ただ、土壇は見られず、石も不ぞろいで、あまりに整然としているのも
不自然で、並べなおしたものかもしれません。
公会堂庭園には、他にも、四恩院のものであったと思われる礎石が
いくつも敷石に転用されています。
ただ幾つかの石は創建当時の石である可能性が高いと思われます。
庭園を囲むフェンスのすぐ外には、浮雲神社が見えます。
四恩院は白河法皇の御願で創建された、浮雲峰の春日大明神を
遥祀する堂舎であり、浮雲神社を鎮守社とします。
創建は保延3年(1215)十三重塔を中心として、表大門、裏門、
衆会所、鐘楼、法華堂、等の建物があったようで、
規模は方一町であったとされます。
現在の公会堂の庭園がすっぽりと入る大きさです。
文明12(1480)年焼失後、同17年に再建されますが、
明和4年(1767)に十三重塔以下堂宇が焼失して以後
再興はされませんでした。
明治の廃仏毀釈後は、荒れるに任せ荒蕪の地となっていましたが、
その場所に明治22年第68国立銀行、第34国立銀行両行の集会所として
奈良倶楽部が建てられ、後に、その建物が県公会堂となり、
昭和56年まで存続します。
私も何度か公会堂は行っており、同窓会も、開催した記憶があります。
老朽化はしていましたが、木造の趣のある建物でした。
庭園の位置は当時とは変わっていないようですが、
内容は随分と変わったように思われます。
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