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学生時代に舟橋聖一氏の訳、そして20数年前には橋本治氏の訳で源氏物語を読みましたが、
今70歳を過ぎて、初めてシニア大学で源氏物語を原文で読む講座を受けています。
 以前はただ話の筋を追うので精一杯で、それ以上のことは何も考えませんでしたが、
今こうして読む機会を得、折からのコロナの影響もあり、物語だけでなくその背景も含めて、
じっくりと読み進めています。
 その中で「若紫」の巻、若紫を二条院に引き取った後のやり取りで武蔵野が出てきます。
ここでは紫から藤を連想して藤壺への恋慕を語るためですから、歌枕としての武蔵野であり、
場所は特定する必要はありませんが、奈良人としては、武藏野は関東のものと決めつけてほしくありません。
前に書きましたが、桓武天皇の皇子で安世親王が亡くなって、葬られた場所が武蔵塚。
その塚にちなんで辺りを武蔵野と称します。

 桓武天皇の母は新笠女(にいがさめ)百済系帰化人で和史乙継(やまとのふひとおつぐ)と土師宿禰真妹(まいも)の娘。

 

天平5年能登王女、4年後山部王。13年後天平勝宝2年に、早良王を産んでいます。

 

 そして、河内交野の百済王の娘明信を青年時代の桓武天皇が愛したと思われ、
藤原南家の当主継縄に嫁し、乙叡(おとえ)を産みますが、後に後宮に入り尚侍。(後宮の内侍司の女官長)となります。

 

 

 明信は、天皇の信頼は極めて厚く、『3代客』には「取り仕切るのは明信。」と書かれており、その縁によって百済王家は栄え、同家から後宮に入った女性は、教仁,貞香をはじめ幾人もいました。

 

桓武天皇には16人の皇子、19人皇女、計35人があり、さらに天皇62歳延暦17年大徳親王をもうけ、その頃ほかに、まだ4歳に満たぬ子があったと言われ、まさに精力絶倫の天皇でした。
 
その子供の中で安世は母の百済永嗣が渡来人であるため妃として認められず、そのため親王宣下を受けられず臣籍降下し良岑安世となったと一般には言われていますが、どうも桓武天皇は半島系の女性が好きだったようで、その子である安世親王にも目をかけており、臣籍降下したのは、おそらく、このまま、うだつの上がらない親王の一人として留め置くより、臣籍降下して、自分の才覚で出世できる道を選ばせたのではないかと私には思われます。

良峯安世は文章、雅楽に優れ、最澄、空海と言った人とも親交が厚い文化人であり、源氏物語の光源氏のモデルの一人とされています。

源氏物語で頭中将と光源氏が舞う青海波の舞は、鎌倉時代の楽書「教訓抄」によれば、良峯安世の作とされています。

此の青海は中国青海省の標高3000m以上の高原にある青海湖のことで、序に使われる「輪台」も西域の輪台国の地名です。

青海波の舞楽は特殊で、両弦(琵琶・筝)を用いる管弦舞楽と言う形式で、明治以来奏されていず、残念ながら奈良南都楽所には伝わっておらず私も舞を見たことがありませんが、舞の途中、詠と言って歌を吟じます。

その詠の作者が「教訓抄」によれば小野篁とされます。

小野篁は中世以来、紫式部を地獄より救い出したとされ、京都にある紫式部墓所にも紫式部の墓と小野篁の墓が並んで祀らています。
また、小野篁ゆかりの千本焔魔堂(引接寺)には紫式部の供養塔があります。

このように、調べてみると、安世は源氏物語と縁があります。

さてこの良峯安世は天長7830)年に薨去し、その墓は武蔵守であったことから武蔵塚と称され。
1681年(延宝9年、天和元年)の『大和名所記(和州旧跡幽考)』に「
武藏塚(手向山と号す) 

或る人いわく。

「此の塚は東大寺の八幡宮のうしろの山を手向山という、又此の山を武藏塚とも号するなりと云々。此の山は春日の社より北にあたれり、いかゞとぞおぼゆる。

澄月歌枕に武藏づかは春日の社の南に森あり、それぞ安世卿の墓所なりと云々。むさしづかは大納言兼武藏守良峯安世卿の墓所、むさしづかと号し、かの卿を神にあがめし所なり。」と記し、また江戸初期の『書言字考節用集』手向山の項に「和州春日社以南有武藏塚、是良峯ノ安世卿古墳也」と記されています。
 しかし、この「武蔵塚」の位置を具体的に記述した文献はほとんどなく、辛うじて吉田東伍著『大日本地名辞書』が「武藏塚は登大路(春日社道)と東大寺南大門路の十字辻の艮に在り、小玉塚と云者もあり。」と記し、それをほぼ引用する形で、江崎政忠著『皇陵巡拝案内記』(昭和7年発行)には「武藏野は春日野の別名にして、武藏塚あるを以てなり、塚は登大路(春日社道)と東大寺南大門路の十字辻の艮に在り、小玉塚とも称す」と記しているだけです。
 この記述に基づくと、現在の武蔵塚(小玉塚)は、人力車の溜り場になっている大仏殿交差点の東北に位置する「木魂塚」銘の石碑が建つ地点となりますが、もはや、塚(古墳)としての機能を失い、下手すれば伝説さえ忘れ去られてしまいそうです。
 なお、前記『皇陵巡拝案内記』には「手向山は嫩草山の北隣にありて紅葉に名あり、此の山に大納言兼武藏守良峯安世卿の古墳ありて、之を武藏塚と云ふ(武藏野の條下に記せる武藏塚と何れが眞か)」と記し、前記武蔵塚(小玉塚)とは別に項を立てており、手向山(手向山八幡宮)付近に何らかの遺跡(もう一つの「武蔵塚」?)が残されている可能性もありそうです。

木魂(こだま)塚(武蔵塚、樹神塚とも云う)

塚の上に昇り北東大寺南大門に向って「コダマ」と呼ぶと奇なことが起ると云われ、これは東大寺に悪神、鬼神の入るのを防ぐ鬼門除けの塚とも又、往古日曜をまつる旧跡とも云う、日曜とは太陽(日輪のことか?)

 『奈良坊目拙解』巻第十四

「武藏塚トテ有之今芝原ト成申候惣而此木魅ノ名所也此社ヨリ一町計北流川吉城川ト申名所也「或云往年在於武藏塚之東邊人家号中村是西野田與登大路村之中間仍有斯名也」或いは、昔武蔵塚の東辺りに人家が有り中村と号した。これは西野田と登大路村の中間にあるためこれを名前としたのだと。」

以上のように、武藏塚の所在地説は3か所あり、
一つは、現在東大寺と春日大社の十字路に建つ
木魂塚がそれであるという説。
もう一つは若草山の北手向山にあると言う説。
さらに春日大社の南の森の中と言う説です。
このどれと決定できる資料はなく、塚の所在地を決定できませんが、武蔵野はいずれにしろ、
曽て広義に春日野と呼ばれた場所と言えます。
 春日大社の南説は、9世紀当時、高畑の社家町はまだ形成されておらず、新薬師寺もまだ隆盛でしたので、現在の春日大社と新薬師寺の間の何処かと言うことになりますが、それらしき伝承は残されていません。
 
 事のついでにもうひとつ、同じく若紫の巻に紫君が手習いする話で。
なにわづにさくやこの花‥の和歌が出てきますが、この歌は、古今集真名序にも記され、
応神天皇の御代に来朝し論語、千字文をもたらした王仁の作だと伝えられています。
 ただ現在ではこの歌が王仁の作とは認められていませんが、少なくとも平城遷都以前の作であることは、法隆寺の壁にこの歌が落書されていたり、平城旧跡から出土の木簡に書かれていることから間違いありません。

 現在、競技かるたの冒頭に詠みあげられる序歌として、
この歌が競技の最初に読み上げられます。
 それまで、競技の最初に読み上げられる歌は、決まった歌はなく国歌で知られる
「君が代」の歌であったり、九州の大会では菅原道真の「こちふかば・・」であったり
定家の「しのばれむものともなしに・・」であったりとまちまちでしたが、戦後競技かるたが復興した時に、佐々木信綱氏に選歌を依頼し、選定されたのがこの歌です。
現在では、すべての公認競技かるた大会でこの歌が詠みあげられています。
 
 

 

 


 

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