奈良麻呂の乱と前に書きましたが、結果はとても乱とは言えません。
ことの発端は長屋王の変と同じく、誣告です。
757年6月28日、山背王が「奈良麻呂が兵器を準備し田村宮を、囲もうとしている』と告げます。
山背王が長屋王の子であるところが、なんとも歴史の皮肉を感じます。
これを受けて、まず孝謙天皇、ついで光明皇太后はどちらも、何とかことを穏便に収めようと、詔をします。
仲麻呂と同じく、奈良麻呂も同族、共に皇朝を助けよ、という詔です。なんとか争いを鎮めたいという、両女帝の思いです。
ところが重ねて、その日の夕刻謀反に誘われたと仲麻呂に申し出てきたものがありました。
そこで、仲麻呂は名前の挙がった、塩焼王、安宿王、黄文王、橘奈良麻呂、大友古麻呂の5人を天皇の前に召しだされましたが、それでも光明皇后の言葉として「みな私に近いもの、朝廷でも高いくらいに就いているのですから、恨みを抱くはずがない、この度は許しますから今後この様な事がないように」と許します。
ところが別に捕らえられた、小野東人らが謀反の内容を白状します。
ようするに仲麻呂が許さなかったということでしょう。
そして、黄文王、道祖王、大友古麻呂、小野東人らは鞭で打たれて獄死。安宿王、塩焼王は流刑、奈良麻呂については何故か記述が無いのですが、おそらくその時同じく鞭で打たれて亡くなったと思われます。
そればかりか仲麻呂の実の兄、豊成も罪ありと言うことで左遷されます。
これで、仲麻呂より上位の者は一人もいなくなったわけです。
豊成は前にも書きましたが温厚な学者肌、とても仲麻呂にはかなわなかったのでしょう。
豊成については、本人より中将姫の親として有名ですね。
屋敷は所謂奈良町にあったようです、いま中将姫ゆかりの寺として、高林寺、誕生寺、徳融寺などがある辺りが屋敷跡です。
その場所も仲麻呂の田村第平城宮のすぐそばだったことから比べると随分不便な場所でこのことからも力関係が伺えます。
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