藤原氏の出生については、九州や鹿嶋は根拠に乏しいとして、河内を1番の有力地であるとするのが学界で大かたの認めるところです。
そして鎌足の生誕地も飛鳥の藤原の地、小原であるとし、中臣氏は河内から飛鳥に6世紀に移ったと、和田 翠氏も述べています。
いずれにしても中臣氏にゆかりの地はまず河内、そして飛鳥です。
そして鎌足の墓地は延喜諸陵式、あるいは三代実録等に多武峰とあります。
民俗学の見地から水野氏は飛鳥では今も墓を多武峰に祀る風習が残ることを紹介されていました。
また藤原氏家伝には墓所は山城国山階精舎とあり、その地に後に山階寺が営まれ、飛鳥に移って厩坂寺、それが奈良に移って興福寺とあります。
このように墓所については、飛鳥と山科の地があげられていて、この阿武山は文献上には出てきません。
ただ日本書紀に鎌足が家職を嫌って三島にこもったという記述があり、鎌足にとって三島は第2の故郷と言える地であったことをうかがわせます。
この三島の地が藤原氏とどういう係わりがあるかが話題に上る事を期待して今回、高槻まで行ったのですが、まったく触れられることがありませんでした。
中臣氏河内出生説の根拠の有力な手掛かりとして、枚岡神社が挙げられます。
ところが、生駒山を回って奈良、そして高安渋川若江から北方の交野枚方一帯にかけては、物部氏旧縁の地が多く、中臣氏の勢力はむしろ孤立している感があるという指摘もあります。
そして、肝心の枚岡神社も讃良郡枚岡の郷から現在の地に移されたという説もあります。
さらに和泉国大鳥郡大鳥神社の摂社の一つ井瀬社が平岡というところにあります。
詳しい話は、はぶきますが、北河内から淀川北岸の摂津にかけて中臣氏ゆかりの田荘が点々と連続しており、枚岡の地はこれらの地から大和へ通ずる要衡の地であることは疑いえません。
重要なことは中臣氏は意外と水軍とかかわりがあると言うことです。
のちに鎌足は近江に都が移るに当たって、宇治で水軍の訓練を行なっていた記述があります。
三島の地は古代淀川水運の要衡の地であり、継体天皇はこの淀川流域の勢力を頼みとして国造りしていたことが指摘されています。
ここからいろんなことが推定されます。
継体帝と中臣氏、物部氏。あるいは氏族の発生について。
そして春日の神と、阿部氏について、ちなみに阿武山の被葬者の一人に想定されている人物が「阿倍湟渠曾倍臣」。
阿威山⇒阿武山⇒安部山といった山名変転も挙げられています。
いずれにしろ、この三島に地に鎌足が祀られているとすると、そこからいろんなことが浮かび上がるわけですが、今回のシンポジウムでは残念ながら、被葬者の議論のみに終わってそれ以上のふかまりがありませんでした。それ以上は自分で勉強せよということでしょうか。
来年も当分この課題から離れられそうにありません。
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