アカダマ会
今回のアカダマ会のテーマは「河内王朝」についてです。
河内王朝説について忘れてはならないのが、
戦後間もなくと言う時期に江上波夫氏によって提唱された「騎馬民族征服説」です。
骨子はツングース系の騎馬民族が朝鮮半島を南下し百済を樹立し、
さらに海を渡り九州に達し、更には東遷して畿内に王朝を開いたということですが、
所謂万系一系の皇国史観の呪縛冷めやらぬ時期に、大胆なこの説は世間に衝撃を与え、
その後の王朝論の諸学説の誘因を為した点に大きな功績があります。
そして前回のテーマであった百舌古市古墳群の存在が、その後の多くの学説の根拠となっています。
河内王朝を巡る学説のいくつかを紹介します。
1:水野 祐氏の三王朝交代説:大化改新以前に血統を異にする三の王朝があったと言う説です。
古王朝 崇神王朝(三輪王朝)イリ王朝
中王朝 仁徳王朝(河内王朝)ワケ王朝(北九州勢力が畿内を征服してうちたてた)
新王朝 継体王朝 (近江王朝)
2:井上光貞氏の応神新王朝説
応神は北九州、あるいは朝鮮半島から来てナカツヒメを娶り入り婿として即位したという説。
3:上田正昭氏の河内王朝説
河内を基盤とした勢力が四世紀後半以降勢力を増大させ、三輪王朝滅亡後河内王朝を樹立するという
明確な河内王朝論です。
4:直木孝次郎・岡田精司氏の河内王朝論
四世紀末、河内を基盤にした勢力ヤマトを制圧し王墓を本拠である河内に築いたと言う説。
5:門脇禎二氏の河内王朝批判説
ようするに河内には王朝はなく、ヤマトの地域国家の西方進出であり、王家の断絶はなかった。
大和にはいくつかの地域国家があり、それぞれが独立を保ちつつヤマト王権との関係は保ったと言う説です。
6:和田萃の大和・河内連合政権論
百舌古市の古墳も政治権力は大和にあり、王墓が河内に移動したという、河内の勢力の評価を抑えた説。
7白石太一郎氏の盟主権移動説。
6の説に対して、古墳は被葬者の首長の本願地に造られる。即ち大王墓の所在地が政治の中心である。
8:近藤義郎氏の大和連合優位説
これも、政治の中心は一貫して奈良盆地南部であり、大王墓の造営地を河内に求めたとする説です。
河内王朝だけでもこれだけ諸説あるわけですが、これといった鉄論はいまだないと言ってもよいと思いますが、天野先生はどちらかといえば河内王朝に対しては疑問符ですが、もう少し私自身も、論点を整理しないとこれ以上は書けませんので、もう少し考えてみます。
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