「百舌・古市古墳群について」
今日はアカダマ会の例会でした。
今回は藤井寺市の教育委員会・関西学院大学講師の天野末吉先生においでいただいて、2時間たっぷり少人数でお話を聞かせていただきました。
私たち奈良まほろばソムリエの人間は、どうしても奈良県内の遺跡に目が向き、なかなか他府県の社寺、遺跡までに目が行きとどかないもので、今回はそういう意味でも貴重な体験でした。
「百舌・古市古墳」の特徴として大きく6項目が挙げられます。
1は言うまでもなく、巨大な古墳(全国的に見てベスト10の半分)がこの地域に集中していることです。
いわゆる仁徳陵に比定される大仙陵は全長が486mで第1位。応神陵(誉田御廟山)が425mで第2位。後3位の履中陵、8位の土師ニサンザイ古墳、9位の仲姫陵(ナカツヒメ)等です。
ただ現在カウウント総数は百舌で108基、古市で127基ですが、墳丘が現存しているのは、百舌で43基、古市で44基に過ぎず、このまま放置すればその数はもっと減っていくことが考えられ、其の意味でも世界文化遺産への登録がいそがれるわけです。
第2として、それらの古墳が入念に設計・施行されたものであるという特徴を有しています。
一見大きく違う外形を持つ古墳同士が若干のマイナーチエンジで造られ、円形と2等辺三角形の組み合わせを設計の基本に使い円形への3角形の取り着き度合いを変えることによって印象を変えているのです。
そしてその担い手は、土師氏という土木技術者集団の主導で行われていたであろう事。
3として、巨大で多彩な埴輪の存在が挙げられます。
此の埴輪の生産も土師氏による大量生産にむいた窖窯(あながま)の導入が確認されています。
第4として、実に大量の鉄製品が埋納されていたことも大きな特徴です。
この時代鉄はすべての原材料が輸入品であり鉄製品は貴重品です。
それが惜しげもなく埋納されていた事実は、この勢力が他に隔絶した力を持っていた証左です。
ただそれが雄略大王の活躍したと思われる時代、5世紀の第四四半期を最後に行われなくなっていきます。
おそらくそれは、ことさら鉄製品を誇示する必要性が薄れていった結果と考えられます。
第5番目として、国際色豊かな副葬品
安閑陵古墳出土のガラス椀は、ウリ2つのガラス椀が正倉院御物に存在する事から、逆に古墳の副葬品であることが疑われる見解がありましたが、近年イランや中国からの出土が報告され5~6世紀の製作であることが明らかになったぐらいの逸品で、正倉院御物と大きさや切子の数まで一致し、同じ型を使って製作されたと推測されます。
その他金銅製竜紋透彫金具2組がよくしられています。
このような国際色豊かな副葬品は時の大王が国際交流を重ねていたことを示します。
第6番目として、築造年代ですが、中心的年代は5世紀であり、この時代は宋書による倭の5王の時代であり、この王達の墳墓の可能性は認められているところです。
以上のように概略ですが、百舌・古市古墳群の重要性は日本史のみならず世界史的に見ても貴重なものであることは明らかです。
今回の話は、以上の内容について逐一詳しく話していただきましたが、なかなかに時間が足らず、この百舌・古市古墳群とヤマト王権との係わりについては話が及びませんでした。
機会があれば是非ともそのあたりのことをもう少し掘り下げて話を聞かせていただきたいものです。
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