今回の論文では、文献資料だけで、考古学的な史料は全く用いていません。
と言うより、そこまで目配りする余裕がないのが本当のところですが・・・
春日社の場合は、春日社ができるまでに在地の勢力が、春日の地で神祭りをしていた証拠は、文献でも、考古学的にも推定できます。
そもそも御葢山そのものが、神奈備山であり、古くより神祭りされていたことは前に書きました。
枚岡神社においても、その後ろの神津嶽が神奈備山であり、やはり山そのものが神だった可能性が高いですし、本殿がかっては湧水の池の中に建てられていたことからも、水と山を祀っていたと考えるのが妥当です。
鹿島・香取については、はっきり言って、まったくわかりません。その社史によれば、神武天皇の元年より社が立てられたということになっていますが、それは、歴史的にあり得ませんが、こういった社史を持つ場合は、やはりその歴史はかなり古いとは推定されます。
ところで、祭礼遺跡から検出される器物は、古墳時代中葉になると、独特の石製、あるいは土製の危惧が出てきます。
そのような祭礼遺物はそれぞれ材質を異にします。したがって製作技術も異なると考えられます。
したがって、例えば有る地域の技術集団が一手にその政策を引き受け、各地に分けていたとは考えにくいものです。
それぞれ個別に生産され、その祭礼の場に近いところで製作されていたはずです。
そういった遺物の中で、もっとも資料が多くかつ祭礼遺物の主体をなしているものに、滑石製模造品があります。
その製作遺跡の集中する場所として注目されているのが、利根川南岸、霞ヶ浦西南岸、印旛手賀沼周辺と千葉県北部です。
ところが、霞ヶ浦・利根川を隔てて隣接する茨城県鹿島郡、行方郡内には検出されていません。
滑石製石枕というものがあり、それは香取郡下総町、神崎町を中心に濃密に分布し、関東地方出土の大分部がこの地方出土であり、全国出土の60%が関東地方出土です。
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