出雲が倭へ進出して、征服したという私の仮説。
まず、出雲の祖はスサノオ。そして彼は半島から高い文化と技術を思ってやってきた。
越人(コシヒト)と言い換えてもいいかもしれません。
そして土地の有力豪族の娘と婚姻して出雲を栄えさせた。
その何代か後の子孫がオオクニヌシです。
そしてそのオオクニヌシが倭へ進出します。
これも、古事記に書いてあります。
大国主が倭へ出発しようとした時のさまです。
「大国主が支度をして、出雲より倭国に上りまさむとして、束装し立たす時に、片御手は御馬の鞍にかけ、片御足はその御鐙に踏み入れて、歌ひたまひしく」
以下スセリヒメの歌となる。
ここで、はっきりと出雲から大国主が倭を目指して出発するさまが書かれています。
が、その後のことは古事記にも日本書紀にも書かれていません。
私は、その後の行動は神武東征伝として書かれていると考えます。
出発地は宮崎です。でもその当時、奈良時代であっても、日向の国はまだ従っていない国です。
その日向から出発したことにしたのは、出雲から出たことを隠すためのみが理由です。
もちろん、太陽が向かう国、ということもあったでしょう。
それから、もう一つ、重要なことですが、現代人は国に関して誤解があります。
出雲と言い、倭といっても、国家ではもちろんありません。戦国時代の藩ほどでもありません。
たとえは悪いですが、アメリカインディアンの部族、アパッチとイロコイ族といった感じをイメージすればいいと思います。
要するに部族の争い、何万の軍勢なんて中国の話です。
東征もおそらくせいぜい数百人規模と思います。
その争いのさまを思い浮かべてください。
常に部族と部族の争いとして描かれています。
倭国と出雲国といった規模の戦いという描写はありません。
戦いで特筆すべきことは、最初の戦いは弓矢です。おそらく石器の弓矢です。
そして武甕槌神が刀を授けます。これは鉄の太刀でしょう。
ここで武器の差が出てきます。ここらは国譲りの神話も含まれるかもしれません。
こうして倭に進出した出雲はそこに根を下ろします。
カムヤマトイワレヒコ、倭に入った彦。です。
やがては大和盆地一帯にまで支配を広げ、今度は王朝と言ってよい、ヤマト王権をうちたてます。
倭とは連続性はありませんから、その後の史書には倭の歴史はほとんど書かれません。
そして祖国である出雲には大きな神社を立てます。
奈良時代を通じて、何度か危機があれば祖神である出雲が登場します。
そして奈良時代、天武の時代に古事記が成立します。
もう少し書きます。
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