大体の歴史書にはヤマト王権は4世紀前半までにほぼ国内を統一したという点で一致している。
前に、kozaさんのコメントで出雲が何時、倭に入ったかと質問を受けたが、私は3世紀だと考える。
ヤマトの南部に最初足場を築き、序々に北まで勢力を広げ、4世紀には国内を統一。
ここからは、従来の学説と同じで、要するに出雲を大和が滅ぼしたか、倭を出雲が滅ぼしたかである。
さて、半島から進出したスサノヲを始祖とする出雲が、何故古事記ではそれを隠して、あたかも出雲をヤマトが滅ぼしたように記述したかは、国際情勢だと書きました。
古事記の編さんは、8世紀、天武のころと言うのは、その序が何時書かれたかは別としてもそう間違いはありません。
では何のためにということも、中国を意識して、律令制国家を目指し、律令の編纂、都城の築造、国の歴史書を編さんという3つの事業の完成を目指したことも間違いありません。
で、その当時の国際情勢と言えば、618年に唐が隋に替わり、660年には新羅が倭と親密な関係を保ってきた百済を滅ぼし、唐・新羅の連合軍と白村江の戦いで倭と百済の連合軍が大敗。
朝鮮半島は新羅によって統一され、その新羅は唐の勢力を背景に、日本に対してこれまでの従属的態度を捨てる。
こうした国際情勢が、遷都や律令、国の歴史書の作成へと日本を駆り立てたわけですが、古事記は言わば正書の作成に先立って作られたもの。
原案と言っていいかもしれません。そこで出雲神話の作成も図られた。
今、中国・朝鮮を意識して言わば国威の発揚のために作る史書の根幹の、国作りが朝鮮半島出身のスサノオと言うのはいかにも、具合が悪い。
そこで、すり替えが企てられ、それでもあまりに出雲の記述が多すぎると言うことで修正して正式に国史となったのが日本書紀というわけです。
出雲の時代は3世紀、この古事記が作られたのは8世紀。500年の隔たりがあります。
まして無文字時代の歴史、言わば語り部によって伝えられてきた物語も、もはや現実感もない大昔の話です。
すり替えに対してもさほどの抵抗はなかったと思われますが、多少の後ろめたさが出雲の重視というわけです。
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