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その後も、鹿島と、春日の関係について、いろいろ本を調べてみました。

確かに、史料がありません。先行論文も見当たりません。

これでは、せいぜい10枚ぐらいしか書けないかもしれません。

もちろん、無理やり枚数を増やすことはできるかもしれませんが、それではあまり意味がなさそうです。

そこで、教授の提案通り、テーマを大きくとって、その中で触れる方向にしようかと考えるに至りました。

テーマは「春日社成立の諸問題」

この線で、計画書を再提出しようかと考えています。内容は以下の通りです。

中臣氏については『日本書紀』で遠祖は天児屋根命であると書かれている。神代のことはともかく、『尊卑分脈』が常盤大連について「始めて中臣連姓を賜う本は卜部なり」とあり、欽明朝に初めて賜姓されたとあるが、元来は河内の中小氏族であった中臣氏が6世紀前期の継体朝頃に大和に進出し、中臣部の伴造氏族として地歩を築いたと思われる。

奈良時代には中臣氏を名乗る複姓氏族は29氏に上るが、その多くは中臣氏の勢力下に入った地方豪族が中央の中臣氏の保護を求めるために中臣の支流氏族の形をとって複姓を称したものである。

中央の中臣氏については、いわゆる物部戦争により、物部方に与した中臣勝海らの中臣本流は没落し、傍流であった中臣御食子、国子らが台頭した。その御食子が鎌足の父である。

一方常陸にあっては、『日本書紀』の天智天皇10年(671)の条に常陸国から中臣部若子を貢上したことが見え、7世紀中頃には中臣部が置かれ中央との結びつきを強めていた。

『続日本紀』には天平18年(746)に常陸の鹿嶋郡中臣部二十烟と占部五烟に中臣鹿島連の氏姓を与え、宝亀十一(780)に鹿嶋神社の祝である中臣鹿島連大宗を正六位上から従五位下に叙したことなどが記され、常陸に中臣部があり、中臣鹿島連らが居住して鹿島社の祝になった者のあることは確かである。

また続日本紀によれば養老三年(719年)藤原宇合は常陸国守に任命されている。そして東国経営にあたるわけであるが、その際、鹿嶋に武の神として武甕槌命を勧請して祀ったことが、後の春日への勧請に繋がっていったとみなす説が中村英重氏によって提起されているのは注目される。

次に神護景雲2年に、春日社の創建されたこがどのような意味を持つかについて、考察を進めたい。

 

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