春日と言う地名が文献に登場する最初は、開化天皇の春日の率川宮という記述です。
開化天皇は所謂欠史8代と言われる第9代天皇、その実在は不明。
その宮は現在の率川神社のある場所ともいわれています。
この春日の地に勢力があったのは和邇氏です。
和邇氏は、さきほどの開化、応神、反正、雄略、仁賢、継体といった歴代王者に妃を送りこんでいます。
そしてその和邇氏の娘が生んだ皇子や王女には春日という名前がついた人が多くいます。
その春日という名前が示す場所は今より広範囲で、天理辺りまで含んでいます。
今も和邇下神社という神社が天理市櫟本に鎮座しています。
だから春日の地域は所謂春日山山麓の春日野台地から、古市さらに櫟本まで広がります。
もちろん春日野台地だけを指す場合もあります。
ところで、春日と書いてなぜカスガと読むのか?
有る説では春日(はるひ)は霞むから春日にかかる枕詞になったと、また霞は春の代名詞で霞んで見える山、霞山から春日山になったと言います。
それはよくわかりませんが、要するに、カスガは枕詞として春日(はるひ)のカスガといわれ、そこからトブトリのあすかからアスカが飛鳥と書くように、春日のカスガからカスガが春日と書かれるようになったらしいです。
さてこの春日野では春日神社ができるはるか前から神事が行われていました。
遣唐使の派遣に際して春日野で神祭りをしていた記事が続日本紀に「遣唐使天神神祇を春日山の下に拝す」とか「遣唐使神祇を葢山の南に祀る」とあります。
百人一首で有名な阿倍仲麻呂の「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」という歌も、単に望郷の歌だけでなく、三笠の山の麓で祀ってきた神に帰国の旅路の平安を祈った歌と解釈されます。
これは春日野で神祇がおこなわれたことを示していますが、春日社ができる前に社があったらしいことも万葉集の歌からわかります。
「ちはやぶる 神の社の 無かりせば 春日の野辺に 栗まかましを」
「春日野に 栗蒔けりせば 鹿待ちに 継ぎて行かましを 社し留むる」
この社が、どんな神をだれが祀っていたのかは確認できませんが、いずれにしろ地元の人が、春日野で神を祀っていたことは事実です。
ここまでが春日社成立までの春日野の歴史です。
ついで、春日社成立をしらべるまでに中臣しについて調べてみようと思います。
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