大化の改新の前、鎌足が軽皇子(後の孝徳天皇)を訪ねた時、鎌足を歓待して、一夜の接待に寵妃阿部氏を供したという話があります。
また天智天皇に近侍した采女で美女の評判の高い安見児という才色兼備、誰もがうらやむ美女を賜与されています。
その時の歌
「われはもや 安見児得たり 皆人の得難にすとふ 安見児えたり」
まさにどうだ、やったでという、すごく分かりやすい喜びの歌を残しています。
梅原猛さんによると、不比等はきっと美男だっただろうということですが、その父親鎌足も、女性には恵まれていますし、やはり美男だったかもしれません。
そして、天智天皇は鎌足にその妃、鏡王女を下げ渡しています。
なにを書きたかったかと言うと、不比等はその鏡王女の子供で、実は天智天皇の子供だという説が、大鏡に書かれています。
藤原氏の系図には不比等・真人の母は車持君与志古娘となっています。
ただ車持与志古娘の実在を確認する史料はありません。
そして、長男である真人は「性は聡明好学、大臣之を異しむ」と『家伝』には書かれ頭がよく勉学好きで、父鎌足が、わが子ながら非凡の人物と驚き珍重したと伝えています。
そして遣唐使とともに入唐し勉学修行し、内外両典に通じ、百済を経て帰国する際、詩一韻を誦したところ、百済の士人がその能を妬み、毒を盛られそのため、帰国後わずか三カ月23歳の若さで生涯を終えています。
その真人は『多武峯略記』に
「元は是れ孝徳天皇の寵妃也。賜うて夫人と為る。孕むことすでに6カ月、詔して曰く、もし男ならば臣が子と為せ。もし女ならば朕が子と為さんと。4か月にして子を産む。男なり」
ようするに、孝徳天皇の皇子であると書いてあります。
鎌足が長男であり後継者である真人を出家させて仏門に入れると言うのは、確かに不思議なこと。
鎌足は不比等が生まれる前に、猶子として鎌足の従父弟中臣連国足の子、意美麻呂をいれています。
鎌足が45歳の時、不比等がようやく生まれています。
このことからも後継者にめぐまれていない鎌足が真人を仏門に入れた不自然さがうかがえ、この事の真実味はまします。
このように鎌足、不比等は皇族との表に出ない縁があります。
このことが、鎌足、不比等の出世に影響があったであろうことは想像できます。
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