中臣氏は1番古いところでは『日本書紀』の垂仁紀に中臣連氏の遠祖である大鹿島が安倍氏の遠祖、和邇氏の遠祖、物部氏の遠祖、大友氏の遠祖と共に、五大夫に任ぜられてと書いてあります。
この垂仁紀と言うのは、まあよく分からないのですが、四世紀ぐらいでしょう。
大鹿島というのは、なにか意味深です、ひょっとしたら、鹿島神宮と何か関係がありそうな名です。
鹿島の記録から言えば、実在で天児屋根命系でも武甕槌命系でも名前が出てきます。
まあ実際のところ検証のしようがないというところです。
私はおそらく、日本書紀編纂の過程で、中臣氏が挿入したのではないかと疑っていますが、あくまでも想像です。
後仲哀紀でも四大夫として、中臣鳥賊津連と言う人が出てきます。イカツと読みます。ひょっとしてこれも雷臣と関係があるかもしれません。
そして雷といえば、武甕槌命。なにやらますます意味深です。
でも今日はこの辺で、この事はやめておきます。
今日書きたかったことは、不比等に至る中臣氏のことです。
で、日本書紀ですがその後しばらく、中臣氏の名前はほとんど出ません。
そして六世紀に三名名前が出ます。
中臣連鎌子、これは鎌足ではありません。それから、勝海、それからもう一人が磐余。
この三人はそろって蘇我氏に対抗して、仏教の導入に反対した人物です。
ただ不思議なことに、この三名の名前は中臣氏の系図には出てきません。そして系図の方には黒田、常盤と言う名前がありますが、逆にこちらは日本書紀、古事記には名前が出てきません。
物部戦争と言うのをご存知でしょうか?
要するに仏教の導入をめぐって、蘇我氏と物部氏が対立し崇仏派の馬子が勝利し、物部守屋についた中臣勝海も殺されたという出来事です。
ここで、中臣氏はいうなれば滅亡します。でも一族全部が滅びたわけではありません。
例えば後の大化の改新でもすべての蘇我氏が滅亡したわけでなく、蘇我石川麻呂の一族は栄えます。あるいは物部氏も、石上と名前を変え一族は残ります。
さて、これで、私の卒論の道筋が見えてくるわけです。
でも、まだ書きません。ちょっと時期早尚ということで、少しもったいをつけます。
中臣氏は、れいの壬申の乱でも大友皇子側について負けています。
映画ではないですが、中臣氏は2度死んでいます。
そこから不死鳥のように行き帰りついには千年の貴族となったわけですが、その話は別です。
話は最初の方に戻って、黒田とか常盤と言う名前が系図にあって、記紀にはでてこない。
これがポイントです。というわけで、ここまで。
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