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不比等が最初に記録に登場した時の官位「直広肆」ですが、たしかに大宝律令の従5位下相当の位階で、授爵者の最低官位です。

だから、不比等は出世が遅かったと言う人がいます。

しかし、この時授爵した人数は総勢で34名。

そのうち20名が直広肆、同階より上は14名です。

言うなれば、序列は15番目と言っていいわけです。

藤原の氏の長者である大島の年齢は不比等より相当上で、直大肆と、わずか一階上にすぎません。

そして記録には現れていませんが、重要なことは、不比等は草壁の皇子の側近だっと思われることです。

何故わかるかと言えば、草壁皇子常用の懸佩刀を、おそらく皇子薨去の際、皇子から賜ったという事実です。

古来、刀はその持ち主の命ともいわれます。

その太刀を不比等が授与されたことは、いかに皇子が不比等を信頼していたかの証となります。

この佩刀は後に

 草壁皇子→不比等→文武天皇→不比等→聖武天皇と伝来されて行き、皇位の象徴とも見られています。

草壁皇子の母持統天皇も、皇子の妃阿閉皇女も母は蘇我臣石川麻呂の娘。

不比等の妻は石川麻呂の弟、蘇我臣連子の娘で従父姉妹の間柄。

その上不比等は功臣鎌足の子、母の持統天皇、妃の阿閉皇女の信頼も厚く、不比等と草壁皇子は4歳違い、言わば親戚の頼りになるお兄さんだったわけです。

その草壁皇子の薨去の後、不比等はずんずん頭角を表します。

先の直広肆だった持統3年の7年後不比等39歳の時には直広弐と四階進み、かって66歳の丹比真人(時の右大臣)の位階に達します。政界第5位の位置です。

その3年前、持統7年、氏上であった藤原朝臣大嶋が世を去り、後を意美麻呂が継いでいます。

そして持統天皇の後、文武天皇が即位します。

その文武天皇が後に慶雲4年(707)詔で不比等の功業をたたえて「藤原朝臣の仕え奉る状は今のみにあらず、かけまくもかしこき天皇の御世御世に仕え奉りて」と不比等が文武のみならず、天武、持統両朝においても忠勤を励んだとほめたたえています。

その文武天皇2年(698)「藤原朝臣(鎌足)賜るところの姓、よろしくその子不比等をして之を承けしむべし、ただし意美麻呂らは神事に供するによって、よろしく旧姓に復すべし」と言う詔がだされ、ここに藤原朝臣は不比等の子孫のみに限られることになったのです。

以上、不比等について長々と書いたのは、この藤原姓が不比等の子の限られるにいたった経過を書くためでした。

さて、だから春日がどうだということですが、今はまだ霧の中、でもおぼろげに姿が見えてきたところです。

1時藤原朝臣を名乗った中臣意美麻呂、この人が鎌足の養子であったこと。

この事に私は少し関心があります。

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