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多坐弥志理都比古神社(多神社)は祭神として神武天皇・神八井耳命・神沼河耳命・姫御神・太安万侶を祀る。
 社伝によると、神武天皇の皇子神八井耳命がこの里に来られ、我、天神地祇を祀るという由緒をもつ。

平安時代の『延喜式』にも名がみえる大和でも屈指の大社である。

神八井耳命を始祖とする多氏によって祀られ、中世には国民である十市氏によって支えられた。

また、本神社の南には、古事記の撰録にあたった太安万侶を祀る小杜神社や皇子神命神社、姫皇子命神社、子部神社、屋就命神社の若宮がある。

本殿は、東西に一間社の春日造が並ぶ四殿配祀の形式をとる。江戸時代中頃の建築様式をよく残すもので、奈良県の指定文化財になっている。 

なお、本地は弥生時代の集落遺跡として著名である。


一方大生神社は健御雷之男神(タケミカヅチノオガミ)を祭神とする元郷社で、その創祀年代は詳らかでないが、鹿島の本宮と云われ古く大和国の飯富族の常陸移住の際氏神として奉遷し御祀りしたのに始まるといわれている。

本殿は天正18年(1590年)の建立と伝えられる三間社流造り茅葺で、当地方における最古社でその時代の特徴を良く示しており貴重な存在である。
             (潮来町教育委員会 境内掲示板の抜粋要約) 

当神社に残されている古文書は幾つかあるのだが、複雑になってしまうので簡略化してポイントを記述してみる。
本社蔵棟札:神護景雲二年(768年)和州城上郡春日の里に御遷幸、大同元年(806年)藤原氏東征御護として此里に御遷還。(明治7年11月)
羽田氏書留由緒:大同元年東夷退治のため藤原棟梁下向。大明神同心し下着。嶋崎大生宮帝勅有りて宮造る。今之鹿島は大同二年御遷。(天正廿三年とある,鹿島神宮家東氏蔵)
ものいみ書留:大同元年東夷退治のため左大将関東下向、この時大明神加護のため春日社鹿島へ遷幸、大生村にて宮作り大明神大生社は御遷座。大同二年極月廿七日に大生宮より今のかしまの本社に御遷座。(鹿島神宮家東氏蔵)
鹿嶋大明神御斎宮神系代々:大生宮者南部自大生邑大明神遷座。勅自大生宮遷座干鹿嶋大谷郷~大生神印当当宮神璽因。(禰宜家系譜、常元の項にあり。文明5年7月25日中臣連家長、鹿島神宮家東氏蔵)
 以上4点の記述が残されている。

④の南都自大生邑大明神は、大和国十市郡飫富郷の多坐弥志理都比古神社(オオニマスミシリツヒコ:多神社)である。

つまり多氏の祖神を祀る大生邑大明神が茨城県潮来市大生の地に、そして現在の鹿島神宮へ移ったとしているのである。

そして大生神社の鎮座地の茨城県潮来市大生台地に大生東部古墳群・西部古墳群・大賀古墳群・釜谷古墳群など100基以上の古墳が存在している。

 その中でも最大規模の大生西1号墳は全長約70m余りの前方後円墳で、筑波系絹雲母片岩の箱式石棺を有し、円筒埴輪や形象埴輪、人骨・大刀その他が出土している。築造年代は6世紀中頃から7世紀と推定されている。

大生西1号墳では埋葬施設が通常とは異なり古墳に付出し部分(テラス)を設けて埋葬している、いわゆる常総型古墳である。

市毛薫氏の「変則的古墳覚書]の中でその特色を以下のように整理している。

内部施設が墳丘裾部に位置すること。

内部施設は通常扁平な板石を用いた箱式石棺であること。

合葬(追葬)を普通とすること。

群集墳を形成していること。

東関東中央部に分布すること。

としている。
 この常総型古墳の分布域は現利根川下流域を中心として南限は千葉県市原市村田川、北限は福島県相馬郡に及んでいる。

またこの常総型古墳の分布域には下総型埴輪及び常総型石枕の分布も重なるともいわれる。
 大生古墳群の報告書である「常陸大生古墳群」(茨城県行方郡潮来町教育委員会)によれば、「大生神社の鎮座地が旧仲国造の治域内にあってオフの地名を負っていることは当然オフ一族の居住地であったことを示しており(中略)かくのごとく地名と墳墓とが立派な傍証となっているので、その背景の中に鎮座される大生神社の創始はオフ一族の移住に伴って起こったとするのが妥当である。」としている。
 つまり大生神社との縁起と古墳群とを兼ね合わせた状況から、多氏が大和方面から移住し多野弥志理都比古神社を勧請、それを鹿島の神として遷座するに到ったとする。
 大生神社の地であるかつての行方郡は、白雉2年(653)茨城郡と那珂郡を分割合併して誕生した。

その初代那珂国造は、常陸風土記注釈に「那珂国造の初祖なり」とある神八井耳命の後裔、建借間命(タケカシマノミコト)である。

天平18年(746)、鹿島の中臣部、占部が中臣鹿島連を賜る(続日本紀)とあり、

それ以前に風土記記載の香島郡に中臣国子と中臣部兎子が大化5年(649)請願して香島郡が成立したとしている。

この頃には常陸に中臣氏と部民である中臣部がいて鹿島の地で相応の力を保持していたことになる。

この中臣とは前述の建借間命の後裔で仲臣(那珂臣)と関連があって、 元々鹿島の中臣氏は多氏系であったのかもしれない。

しかし多氏が衰退し、畿内から中臣氏が進出し(同族であったのか別として)、鹿島の実権を掌握したのかもしれない。

 

では、結論としてどうなるかということですが、はっきり言って良く解らない、
であるから以上の事は、枚数に制限のある論文では触れることはできないし

また、すべてが推測でしか書きようがない以上、論文には取り上げえなかった。

畿内の天児屋根命の末と言う中臣氏と、神八井耳命の末と言う、鹿島の中臣氏とをどう結び付くのかは、次に書きます。

 

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