鎌足の二人の子に対して、『多武峰略記』『多武峰縁起』(鎌倉時代成立)では定恵を孝徳天皇の子とする説を載せています。
「鎌足が、妊娠6カ月の車持夫人を天皇から預かり、産まれた子が女なら天皇の子、男なら鎌足の子とせよ」と言われたという内容です。
不比等を天智天皇の子とする説は、『帝王編年記』『公家補任』で、いずれも生母は車持夫人です。
どうしてこのような説が流布したのかは、まず不比等が異常と言ってよいほどに早く権力に上り詰めたことがあります。
『尊卑分脈』に、不比等は「内大臣鎌足の第2子なり。一名を史。斉明天皇5年生まれる。公、避くるところの事あり、則山科の田辺史大隅の家に養はる。」とあり、出生に秘密があることが、この避くる事であり、天智の血をひく持統、元明が亡父の忘れ形見である不比等を引きたてたというわけです。
一方の定恵に関しては、まず鎌足が長男で跡取りである定恵を僧侶にしたこと、また生命の危険が大きい遣唐使に派遣したことも、不審を生みます。
さらに二人の間に同母でありながら15歳もの開きがある事も、不自然です。
同時代であっても誰の子かというのは、生母以外はわからないものですから、まして1300年の年月を経て、真実は残された記録でしか確認できません。
ですから、このことの真偽は確認しようはありませんが、火のないところに煙は立たないと言うのは時代に関らず真理で、前回の話を思い出していただきたいのですが、鎌足と女性の係わりで、鎌足は孝徳天皇の竉妃を与えられています。
また天智天皇の采女を得ています。さらに天智天皇の妃であったらしい鏡女王を妻としています。
可能性として、いずれかの女性が天皇の子種を孕んでいたとすれば、今見て来たようなことがありうるわけですが、定恵、不比等は車持夫人の子であることははっきりしています。
ですから、どちらも可能性はゼロではないけれど、真実ではなさそうです。
いわばよくある庶民の貴種伝説が作った物語と言えますが、ただ、同母でありながらの定恵と不比等の15歳の年齢差は確かに不自然です。
限られた史料の中だけで考えるのは性急だと思いますが、そこから一つの推論が生まれます。
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