興福寺の創建に関して少し調べていると、鎌足と女性に関して、日本書紀や、万葉集にいくつか書かれたことが目につきました。
『日本書紀』に、鎌足が神祇伯を固辞して、三島に籠っていた時に、足を患って、自宅にこもっていた軽皇子(孝徳天皇)を訪ねた時、輕皇子が鎌足の人となりに感じ入って、鎌足に竉妃阿倍氏(小足媛左大臣阿倍倉梯麻呂の娘)を賜うという記事があります。
でも結局は鎌足は軽皇子を見限って、中大兄皇子につくのですが、その話は置いておいて、この時、後の孝徳天皇の竉妃を与えられています。
この小足媛は後に有馬皇子を産んでいます。
そして、次に『万葉集』巻2に内大臣藤原卿、宇根采女を娶きし時作る歌として
われはもや 安見児得たり
皆人の得難にすという 安見児得たり
こんな歌が載っています。
意味は正にその通りで、美女の噂高い安見児という采女、皆がほしいと思いながらかなわない安見児を、手にして喜んでいるという歌です。
なんともはや、鎌足のイメージとは少し違う歌ですが、この歌の背景は、私は知りません。
解釈もその通りでいいのか、違う解釈があるのかも知りませんが、采女というのは地方豪族が天皇にささげた天皇の身辺を世話する女性です。
本来臣下が手を出すのは憚られるわけですから、普通に考えると、天皇の許しがなければ得たということになりませんから、ここでも与えられたと解釈してもいいと思います。
先には孝徳天皇の竉妃を貸し与えられ、ここでは天智天皇の身辺を世話する女性を、与えられたということになります。
そしてこの歌の前に、内大臣藤原卿、鏡王女を娉ふ(よばう)時の贈答歌というのが載っています。
玉くしげ覆ふを安み開けて行かば 君が名はあれど
わが名し 惜しも
玉くしげみむろの山のさなかずら
寝ずはつひにありかつましじ
この歌はいわば言葉の遊びという説もありますが、実際はわかりませんが、書かれたことをそのまま取れば、鎌足が鏡王女に、ちょっかいを出しているということになります。
この歌の前に鏡王女と天智天皇の贈答歌が載っていますので、天智天皇と関係のある女性ということになります。
鎌足は『藤氏家伝』によれば、
「為人(ひととなり) 偉(たたは)しく 雅(みやび)かにて風姿(かたち)特(こと)に秀(すぐ)れたり」
まあ要するに、かっこいい男性ということになります。
その子不比等も梅原猛さんによれば、美男子であったろうということですが、日本書紀や万葉集にこのように関係ある女性が何人か載っているのは、そうある事ではないと思います。
何故こんなことを書くかと言えば、前に書きましたが、興福寺の前身である山階寺の創建に鏡王女がかかわっているからです。
前に中途半端で終わっているので、もう少し次回書いてみます。
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