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今年の夏は本当に暑いです。
35度なんて普通で38度を超えてようやく取り上げられるぐらい。
思えば去年の夏は、奈良大学のスクーリングに明け暮れていましたが、今年は予定はなし。
そうなると逆に何もする気が起こりません。

ここらが凡人の故、後ろから追われないと動かないと言うわけです。
今年の8月は、完全休養をきめこんでいます。

9月には、興福寺の中金堂の再建工事の見学を予定しています。

そこで、興福寺のことを少し予習しておこうと、本を開くのですが、はかどりません。

奈良市民にとっては、興福寺は奈良公園と一体化して、ほとんど寺と言う感じすら抱いていません。

一般的な本には、興福寺は藤原鎌足の夫人、鏡女王が天智8年(669)に山城国に建立した山階寺に始まり、都が飛鳥に移ると飛鳥の地に移り地名にちなんで、厩坂寺と呼ばれ、さらに都が平城京へと移るに従い、厩坂寺も都へ移り、名前も興福寺と改号されたとあります。
奈良時代から平安時代にかけて藤原氏の庇護を受け繁栄し、南都を支配する大寺院として栄えたと言うのが、解説です。

今まで、こういう解説を目にしても、何の疑問も感ぜず、そのままスルーしていましたが、アカダマ会で色々勉強するうち、この説明にも少し疑問を感じるようになりました。

まず、興福寺は藤原氏の氏寺という位置づけです。官寺ではありません。

それにも関わらずあまりにも一等場所を占めすぎているのが疑問です。

そもそも、興福寺のある場所は外京とよばれ、平城京から言わばはみ出した場所です。

おそらく、寺をそこに集める意図があったと言われています。

その中でも興福寺は一段高い、平城宮を遥かに見降ろす場所にあり、他の寺でらを睥睨する位置にあります。

どうして1私の寺である興福寺がそこまで優遇されているのでしょう?

もちろん平城京の総合プロデュウサーは藤原不比等であるとされます。

だから自分の氏寺を第1等の場所に置く。自然なようで、果たしてそれでいいのかが疑問です。

次に鏡女王というのが謎です。

直木孝次郎氏によれば、鎌足がいかに有力者であっても王女を妻にできるかは、はなはだ疑問とされます。

だいたい、その鏡女王と言う人も謎の人物です。父も母もはっきりしません。額田王の姉だと言われていますが確証はありません。父とされる鏡王もあまりよく分からない人物です。

鎌足の妻は車持君国子の女与志古娘で、長男である定恵と不比等の母です。

もし鏡女王がほんとに王族であるならば、すでに妻がいても、後から来た鏡女王が正妻になることは、ありうることですが、これもはっきりしません。

どうも。いきなりわからないことだらけで、興福寺の勉強は、早くも行き止まり状態です。
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