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2、中臣氏の史脈
中臣氏の名前が『日本書紀』に初めて登場するのは、
垂仁天皇二十五年春二月に中臣連氏の遠祖の大鹿嶋が、
阿部臣の遠祖武淳川別、和珥氏の遠祖彦国茸、物部連の遠祖十千根、
大伴氏の遠祖武日と共に五大夫に任ぜられたとする記事である。
中臣連遠祖大鹿嶋は、伊勢国風土記逸文に倭姫命と天照大神を祭ることに関係する話が
みえ、また倭姫に従って五十鈴河上に、天照大神の鎮座の地をたずね、伊勢神宮が創建
すると大鹿嶋が祭官に任じられたとみえているが、その名前からも鹿嶋と何らかの関係が
うかがわれる。
同じく二十五年三月の条の別伝(一書)には、中臣連の祖探湯主が卜占したという記事がみえる。
仲哀天皇代では、四大夫として中臣鳥賊津連・大三輪大友主君・物部膽食咋連・大伴武以連の四者が挙げられている。
神功皇后紀にも同じ中臣鳥賊津使主の名がみえる。
この鳥賊津使主は伊賀都臣とも書かれ、また雷大臣と同一人物が分身させられたとも考えられている。
五世紀中頃允恭天皇の舎人として、同じ中臣鳥賊津使主と言う名がみえるが、別人と考えられる。
この後六世紀に至るまで、中臣氏の記録はない。
これらの中臣氏については、その存在を裏づける史料が『日本書紀』の記述以外にはなく、立証は難しい。
そして六世紀に入ると『日本書紀』には三人の中臣の名がみえる。
一人は欽明朝の中臣連鎌子である。欽明天皇十三年(五五二)十月、百済の聖明王が釈
迦像・経論・幡葢などを献上した時、天皇が礼拝すべきか否か群臣に問うた時、礼拝すべ
しと言う、蘇我大臣稲目にたいし、物部大連尾輿と共に仏教の受容、礼拝に反対した。
二人目は勝海で、敏達天皇一四年、疫病が流行した時物部連守屋とともに仏教信仰を絶
つべきことを奏し、用明天皇二年にも、天皇の仏教信仰に異を唱えた。
三人目は中臣連磐余である。
敏達天皇十四年、大臣蘇我馬子が病気平癒のため天皇に仏法信仰を願い出た時、
大連物部守屋と大三輪君逆と共に仏像を壊し、寺を焼き払い、仏法を滅ぼそうと謀ったと伝える。
これらの仏教受容をめぐる物語は元興寺縁起にも見られ、仏教受容をめぐって物部連、
中臣連と三輪君の三氏族が団結して反対したことは間違いないと思われ、
これらの中臣氏は実在の人物とみて間違いなかろう。
ただ『日本書紀』に名前の見えるこの三名の中臣氏は、藤原氏の諸系図や「中臣氏系図」
「大中臣氏系図」などには見当たらない。
逆にこれらの系図に六世紀ごろの人物として黒田(継体朝)・常盤(欽明朝)・可多能祐(敏
達朝)の名があるが、『古事記』や『日本書紀』などの正史にはいずれもその名がみえない。
七世紀に入ると『中臣氏系図』に中臣御食子・国子小徳冠前事奏官兼祭官、
前者は小治田(推古)朝・岡本(舒明)朝、後者は岡本朝に供奉したと記す。
『日本書紀』では御食子は舒明即位前紀に弥気としてみえ、国子は推古紀三十一年条に
見え、征新羅の大将軍に任じられ、実在は確実な人物である。
前事奏官・祭官は推古朝に成立し、「天皇の御前=側近にあって言辞を伝奏する役」、
祭官は「宮廷の祭祀にあずかる官職」である。ここでも中臣氏は斎官として登場する。
そしてこの御食子の子が鎌足であり、ここから藤原氏は始まったのである。
中臣氏の名前が『日本書紀』に初めて登場するのは、
垂仁天皇二十五年春二月に中臣連氏の遠祖の大鹿嶋が、
阿部臣の遠祖武淳川別、和珥氏の遠祖彦国茸、物部連の遠祖十千根、
大伴氏の遠祖武日と共に五大夫に任ぜられたとする記事である。
中臣連遠祖大鹿嶋は、伊勢国風土記逸文に倭姫命と天照大神を祭ることに関係する話が
みえ、また倭姫に従って五十鈴河上に、天照大神の鎮座の地をたずね、伊勢神宮が創建
すると大鹿嶋が祭官に任じられたとみえているが、その名前からも鹿嶋と何らかの関係が
うかがわれる。
同じく二十五年三月の条の別伝(一書)には、中臣連の祖探湯主が卜占したという記事がみえる。
仲哀天皇代では、四大夫として中臣鳥賊津連・大三輪大友主君・物部膽食咋連・大伴武以連の四者が挙げられている。
神功皇后紀にも同じ中臣鳥賊津使主の名がみえる。
この鳥賊津使主は伊賀都臣とも書かれ、また雷大臣と同一人物が分身させられたとも考えられている。
五世紀中頃允恭天皇の舎人として、同じ中臣鳥賊津使主と言う名がみえるが、別人と考えられる。
この後六世紀に至るまで、中臣氏の記録はない。
これらの中臣氏については、その存在を裏づける史料が『日本書紀』の記述以外にはなく、立証は難しい。
そして六世紀に入ると『日本書紀』には三人の中臣の名がみえる。
一人は欽明朝の中臣連鎌子である。欽明天皇十三年(五五二)十月、百済の聖明王が釈
迦像・経論・幡葢などを献上した時、天皇が礼拝すべきか否か群臣に問うた時、礼拝すべ
しと言う、蘇我大臣稲目にたいし、物部大連尾輿と共に仏教の受容、礼拝に反対した。
二人目は勝海で、敏達天皇一四年、疫病が流行した時物部連守屋とともに仏教信仰を絶
つべきことを奏し、用明天皇二年にも、天皇の仏教信仰に異を唱えた。
三人目は中臣連磐余である。
敏達天皇十四年、大臣蘇我馬子が病気平癒のため天皇に仏法信仰を願い出た時、
大連物部守屋と大三輪君逆と共に仏像を壊し、寺を焼き払い、仏法を滅ぼそうと謀ったと伝える。
これらの仏教受容をめぐる物語は元興寺縁起にも見られ、仏教受容をめぐって物部連、
中臣連と三輪君の三氏族が団結して反対したことは間違いないと思われ、
これらの中臣氏は実在の人物とみて間違いなかろう。
ただ『日本書紀』に名前の見えるこの三名の中臣氏は、藤原氏の諸系図や「中臣氏系図」
「大中臣氏系図」などには見当たらない。
逆にこれらの系図に六世紀ごろの人物として黒田(継体朝)・常盤(欽明朝)・可多能祐(敏
達朝)の名があるが、『古事記』や『日本書紀』などの正史にはいずれもその名がみえない。
七世紀に入ると『中臣氏系図』に中臣御食子・国子小徳冠前事奏官兼祭官、
前者は小治田(推古)朝・岡本(舒明)朝、後者は岡本朝に供奉したと記す。
『日本書紀』では御食子は舒明即位前紀に弥気としてみえ、国子は推古紀三十一年条に
見え、征新羅の大将軍に任じられ、実在は確実な人物である。
前事奏官・祭官は推古朝に成立し、「天皇の御前=側近にあって言辞を伝奏する役」、
祭官は「宮廷の祭祀にあずかる官職」である。ここでも中臣氏は斎官として登場する。
そしてこの御食子の子が鎌足であり、ここから藤原氏は始まったのである。
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