春日大社の前史を調べていて、御葢山から神奈備山、そして古代の神へと進み、うっかり入ってはいけない深い森に足を踏み入れてしまったようです。
古代の神々は、民俗学の分野でであり、宗教学の分野です。
この分野には生半可な知識で踏み入ることは危険なようですので早々に撤収しますが、一応の整理はしておきます。
原初の神は非人格的、非意志的なものであり、タマとよばれるようなものです。
もちろん人間にもタマはあります。ことばであれば言霊(コトダマ)と呼ばれます。
浮遊し、いたるところに満ち満ち、モノについたり離れたりしますが姿は見せない存在。
まさにサルトルの「存在と無」の世界。認識すれば存在し、認識できなければ存在しません。
森羅万象がアニマ(霊魂)を持ち、植物も岩石も言葉を話し、夜は炎のようにざわめき立ち、昼はサバエ(稲の害虫であるウンカ)が沸くように沸騰する世界。
そしてそれらの神は善意に満ちているわけではありません。世界のいたるところに存在し、人間と同じように喜怒哀楽の感情をあらわにし、生き生きとうごめきます。
その様子を『日本書紀』では
「葦原中国は、磐根、木株、草場も、猶能く言語ふ。夜は熛火の若に喧響ひ、昼は五月蠅如す沸き騰る。」
「出雲国造神賀詞」では
「豊葦原の水穂の国は、昼は五月蠅なす水沸き、夜は火瓮なす光く神あり、石根、木立、青水沫も事問ひて荒ぶる国なり。」
世界は異風、異俗の神がわがもの顔に横行し、跳梁する世界。人間の力を超えた神の世界が存在しました。
原初そのような神々が世界に満ち満ちているところに、人間と言う小動物が小賢しい知恵を持って生れてきます。
最初は人々はひたすら神を畏れ、敬い、お祀りをしました。
そして世界共通ですが、自然の象徴として、生命の源、不死と再生、万物を照らす太陽を神とあがめます。
太陽はまさに神であり、名前など必要ありません。太陽だから神なのです。
やがて恐れ多くも、その神々を自分たちの都合のいい神、自分たちを守ってくれる神、願いを聞き入れる神と、そうでない神と、勝手に仕分けを始めます。
そして太陽と言う神に、名前をつけます。
日本では天照大神。エジプトであればラー。ギリシャであればアポロン。
そこで止めればいいのに、その上に唯一神、すべての創造主を作り出した民族もあります。
所詮人間の浅はかな知恵で作り出した神。本来なら人間を守ってくれる神が、その神ゆえに他民族にたいして殺戮を引き起こしているのが現状ですが、これ以上は書きますまい。
話を日本の歴史に戻します。
日本でも一神教ではありませんが、同じようなことが起こります。神々の仕分けが行われるのです。
葦原中国を支配する神の交代が行われます。
『日本書紀』神代下
「然も彼の地に、多に蛍火の光く神、及び蠅声す邪しき神有り。復草木或くに能く言語有り。
故、高皇産霊尊、八十諸神を召して集へて、問ひて曰く、「吾、葦原中国の邪しき鬼を撥ひ平らけしむと欲ふ。・・・・」
このように、先住の神を「邪しき鬼」呼ばわりし、「二の神遂に邪神及び草木石の類を誅ひて皆已に平けぬ。其の不服はぬ者は、惟星の神香香背男のみ。」
「邪神及び草木石の類」は神であったのに、不服従の故をもって誅戮の対象とされ、天つ神による国つ神の平定が語られる。
ここで言う二神こそ、香取の経津主神と鹿島の武甕槌神です。
荒ぶる神、岩根、樹木、草の葉も言語うことをやめさせられます。国つ神の零落です。
このようにして天つ神が国つ神にとって代わり、神々も律令体制に組み込まれて行き、神々にも自分らの祖先神をあてはめて名前をつけていきます。
山や石や水など自然そのものを対象としての信仰は、姿を消し、神社が生まれます。
実際はもっと深いというか、簡単ではないかもしれませんが簡単に整理するとこんな感じでしょうか。
そして記紀神話が始まります。というか作られて行きます。
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