和邇氏のことを書いていて、急に思い立って、和邇下神社に行くことにしました。
天理櫟本のバス停で降りると目の前に和邇下神社の鳥居があります。
鳥居をくぐってすぐ脇に公園があって、そこに柿本人麻呂像があります。
ここにはかって、治道山柿本寺があって、人麻呂の墓塚と伝えられる歌塚があります。
柿本氏は和邇氏の一族です。
参道をまっすぐに行くと、急な階段が現れます。その上が和邇下神社ですが、なぜそんなに高いかと言うと、この神社は和邇下神社古墳と言う全長115mの古墳の円墳部の頂上に鎮座しているからです。
この和邇下古墳の東方丘陵上に30数基の古墳が分布していて、東大寺山古墳群と言われています。
おそらく和邇氏一族の墳墓だと思われます。
そのなかでも東大寺山古墳は丘陵上の最高所の位置していて、後漢の中平(184~189)の年号を金象嵌した環頭太刀が出土したことで有名です。
この古墳は天理教の教会内にあり、恐る恐る入って行きましたが、誰も人がいなく、どんどん奥まではいってようやく人がいて、その人の許可をもらって、やっとたどり着きました。
そこからまた急な階段を上って、ようやく山の上が東大山古墳です、わたしには墳丘の形は、全く確認できませんでした。
次にそこから和邇の集落を目指します。この集落の中に和邇坐赤坂比古神社があります。
『日本書紀』に言う「和邇坂下」の地です。
このように櫟本あたりには和邇氏のゆかりの神社や場所が、まだ残っています。
和邇氏には叛乱伝承はなく、逆に王権側に立って叛乱を平定したり、軍事行動に従事したりした伝承が多くあります。
そして数多くの皇妃を出している氏族です。
おそらく5世紀後半ごろに王権に完全に服属し、葛城氏にとって代わったと思われますが、やがては物部氏にのみ込まれて行って、その名を消したのではないかと思われます。
その古代氏族の名残の地がこのあたりです。
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