ここのところ、アカダマのことについて、思い出す機会があり、
そうした中で、日吉館についても語ることがしばしばありましたので、
改めて日吉館についてこの機会に書いておきます。
登大路を東に上がって行くと、博物館の前に「日吉館」(1914~1995)という宿がありました。
1972年にはNHKで「あおによし」という番組があり、この旅館が紹介されたこともあります。
その建物も既に取り壊され、今はテナント募集中の空き家となっています。
會津八一が愛し、その八一を訪ねて奈良を愛する多くの文人、学者がこの宿に集いました。
また八一が早稲田の学生を連れて毎年のように訪れたことから、早稲田の古美術のゼミや古美研が以後も毎年のように宿泊した宿でもあります。
この宿は奈良の古社寺、古美術を訪ね長期滞在する若者たちに、時には実の祖母のように慈愛に満ち、時には厳しく接し、皆に日吉館のおばちゃんと親しまれた田村キヨノさんの存在抜きでは語れません。
この宿で、多くの奈良を愛する人々の交流が生まれ、育って行きました。
おばちゃんに認められた人は、奥の座敷に通され、若者はいつかはおばちゃんに認められてあの奥の座敷に通されるようになりたいと、勉学に励みました。
おばちゃんは、一刻も早く宿を出て、時を惜しんで、奈良を回れという気持ちで朝、若者がいつまでも宿に居ることを許しませんでした。
時にはアカダマは、そうして宿を追い出された日吉館のお客さんが朝に、1日の行動を打ちあわせたり、夕刻にはその成果をお互いに報告し合う場でもありました。
そうした若者の姿を目の当たりにしていた私も逆に、奈良について目を開かせられることが多くありました。
日吉館と言えば、安い宿泊料にもかかわらず提供される豪華な夕飯のすき焼きが有名でした。
私は奈良の人間ですから、泊ることはありませんでしたが、そのすき焼きは何度も御馳走になりました。
と言うのは、私が所属していた南都楽所では毎年1月15日が舞楽始めでそれが終わって、日吉館で新年会を開くのが恒例になっていました。
今では骨董品と言うか、目の当たりにすることはない、炭火の七輪の上でのすき焼きです。
今それを屋内でやれば一酸化炭素中毒で倒れる人が続出かもしれませんが、日吉館は大丈夫です。なぜかと言えば自然に十分な換気が行われたからです。
早い話が隙間風がはいるからです。座敷は自然な傾斜があり、寝ているうちに自然に転がって行くという話もありました(笑)
でも、日吉館に泊まる人にとっては、そんなことは問題ではありません。その醸し出す雰囲気がすべてだからです。
今奈良には残念ながら、日吉館も、アカダマもすでにありません。
奈良を愛する人々のために、今の時代に合ったこうした場所が、いつかまた出来ることを切に祈ってやみません。
日吉館をよくあらわしている文章を参考のために掲載しておきます。
最初は日吉館のお客さんが、自主的に日吉館に宿泊する後人のために書いた文章です。
後の文は、現在早稲田大学大学院教授である大橋氏の若き日の日吉館の思い出です。
先日図らずも、大橋先生には電話でお話しする機会を得ましたが、この文章を掲載する許可はいただいていませんが、できれば事後承諾で願います。
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