先日、毎日新聞の記者から電話があって、昔の近鉄奈良駅について聞きたいとのこと、
近鉄奈良駅が地下になったのは大阪で万博が行われた1970年のこと、それは良く覚えていますが、私自身、町の古老と言う年ではないと思っているし、ほかに適任者がいるだろうと言いましたが、適当な人がいないらしい。
奈良大学と言い、この新聞と言い、なぜか昔のことを語る機会が突然同時に訪れるのも不思議な気がします。
ともあれ、奈良大学で話をしようと持っていたレジメを渡して、雑談して帰って行ったのですが、
昨日、たまたま近所の人と、バスでであったら、新聞の記事を見たとのこと。
載るのは承知で引き受けたのですから、それはいのですが、取材を受けた時、名刺も貰わず。
こちらの名刺は渡しておいたから、その後掲載にあたっては当然連絡があると思っていましたが、まったく連絡がないまま人から聞かされるのは、なんともその取材した記者の良識を疑います。
ま、ともあれ、以下が、その記事。
今日、WEBで調べて初めて見つけました。
話のついでに、福井の原発の記事をたまたま、読売、朝日で詠み比べると、その評価は全く正反対。
各社、その主張が違っても、それはいいとしても、これだけ正反対の評価をされると、読者はよほどしっかりとしていないと、判断を誤ることになります。
今日は新聞に関して、考えさせられる日となりました。
近鉄100年物語:近鉄奈良/下 地下化で街も様変わり /奈良
毎日新聞 2014年05月20日 地方版
<きんてつなら KINTETSU−NARA>
100年前の1914(大正3)年の開業当初、現在の近鉄奈良駅(奈良市)は地上駅だった。道路を電車と車が並走する時代が長く続いたが、69年に地下化された。駅南側で南北に走る小西さくら通り商店街をはじめ、街の様相は大きく変化した。
「昔、春日大社のおん祭の御渡り式の時に、やってきた電車に馬が驚いて走ってしまったことがありま す」。商店街の路地を入った所にあった名物喫茶店「可否茶座アカダマ」マスター、大槻旭彦さん(69)は、人々の足だった人力車が何台も並んで待つ光景や 未舗装だった道路を覚えている。
過去に商店街は北側の中筋町の通りと一直線に結ばれていた。しかし、2両編成の電車が5両になり、ホー ムは西に延長された。通りはホームに沿って西に曲げられ、北側へは踏切で分断された。「踏切が鳴っても、走っていけば電車に乗れました」。不便な裏通り だった地上駅時代は、店も少なかったという。
28(昭和3)年に祖父が東向商店街で開業した「アカダマ薬局」で、54年から父がコーヒーを出し始 め、65年に薬局と分離した。過労で商社をやめた大槻さんが、72年に店を引き継いだ。奈良を愛する寺社関係者や考古学者、写真家ら文化人が県外からも大 勢訪れた。しかし、体力の限界もあり、2011年末に閉店した。「奈良好きの人が集まる場だった。そんな場がまた欲しいが、時代に合ったものがその都度生 まれるのでしょう」
地上駅時代、商店街の前に小さな改札口があった。明治初頭に創業し、1918(大正7)年の米騒動では 軍が守りに来たという「刀禰米穀店」を営む刀禰善次さん(74)は「小学生の頃、駅は遊び場やった。京都行きの奈良電気鉄道(後に合併して京都線)が来て て、近鉄とは色が違ったんや」と語る。
改札口は地下化で無くなったが、元駅長の中川新次郎さん(81)は「今の地上出入り口はその名残です」 と明かす。当初は非常に急な階段で、その後にエスカレーター付き出入り口になった。線路の地下化で商店街は表通りとなり、利便性の向上を見越して衣料店 「ニチイ」やスーパー「いそかわ」が出店した。人通りは一気に増えていった。
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