さて、話は換わりますが、志貴の皇子とは天智天皇の孫王で、その子白壁王は62歳という年齢で即位し、光仁天皇となります。
773年山部親王が皇太子につき781年、山部親王が即位し、桓武天皇となります。
784年にはその桓武天皇が長岡京に遷都。794年には平安京への遷都となります。
何もここで、歴史のおさらいをするわけではありませんが、こういったことから要するに一般的には、天武系の血統が途絶え、平安時代は天智系に移り、奈良時代は天武系と言われます。
こう云った言い方は、私はかねてそれは少し違うと前から思っています。
なるほど表面的には確かに奈良時代は天武系血筋が次々皇位についたようにも見えます。
しかし、天武天皇の長男は高市の皇子です。
しかも高市皇子は壬申の乱の時19歳。草壁皇子は11歳、大津皇子は10歳、要するに父天武を助けられるのは高市皇子だけでした。
そして高市皇子は勇敢でした。戦いの中にあっては、父天武を助け励ましさえしています。
その人柄、能力も周知の事実です。
のちには太政大臣となりその実力は死後「後皇子命」と言う尊号を奉られていることからもうかがい知れます。
ただ、高市皇子の母が尼子娘(尼子の郎女)胸方君徳善の娘と言う地方豪族の出であり、それ故、皇位に着く可能性は低かったことは事実です。
ですから長男である高市皇子が皇太子とならなかったからと言って、これはこれで納得はできます。
しかし大津の皇子は違います。文武両道に秀で人望もすこぶる高かったと言われています。母は天智天皇の娘大田皇女。妹が鵜野讃良皇女、後の持統天皇です。
その持統天皇が生んだ草壁皇子より1歳年長、誰が見ても天武の血筋を継ぐという意味では大津皇子に分があります。
しかし結果はご存知の通り、悲劇的な運命です。
要するに持統天皇が我が子に皇位を継がせたいという執念の前に、滅ばざるを得なかったわけですが、これでおわかりのように、決して天武の血筋と言うわけでなく、持統の血筋が優先されたわけです。
その草壁皇子が若くして亡くなった後、持統天皇が即位します。その後は草壁皇子の子でもである文武天皇の即位。言うまでもなく持統の血筋を守るためです。
その後も続きます。その文武がなくなった後は女帝をはさんで、その子である聖武天皇にいわば無理やり引き継がれていきます。
ひたすら持統天皇の血筋へと皇統はは受け継がれます。決して天武の血筋が優先されたわけではありません。
ところがこうして必死に受け継いだ持統の血筋が、聖武天皇で途絶えてしまいます。
男子が生まれなかったあるいは早くに亡くなった結果、あろうことか聖武天皇の子阿倍内親王が独身のまま女性として初めて皇太子となります。未婚ですから、当然子が生まれる可能性は全くありません。
これでまさにジエンドです。持統天皇の願いがこの考謙女帝の即位で断ち切らてしまいます。
奈良時代が天武系の時代であるという言い方に私が異を唱える理由はお分かり頂けると思います。
天武系ではなく持統系の時代であるという言い方が正しいと考える次第です。
これを書くと長くなるので、もうくだくだ書きませんが持統天皇の血筋だけでなく藤原氏の血筋もこの皇位の継承には、関わります。
一応これで終わりですがが、ここでまだ少し続きがあります。
何故いわば傍流、本来皇位の望みの全くなかった白壁王が天皇になったか?
壬申の乱はいやに詳しいのに対して、奈良時代のこの時は、何もないような怨霊と白亀の小説のような歴史です。ということは、この時の事績が壬申の乱に移されているのではないかと疑うのですが。
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