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従来遷都の理由について、『周礼』の思想による都城づくりが
遣唐使の派遣によって、もはや古いことが判明した結果であると考えられてきました。
しかし、長安城についてはすでに遣隋使がみていることかわかっています。
従って遣唐使による新たな知識で藤原京が否定されたという見方は
当てはまらないと考えられます。
あくまで藤原京の立地は唐長安城を参考にして陰陽五行説に基づいた理想の都城
として建設されたのですが、
大和三山、飛鳥川との関係で、南が高く中央に位置する藤原宮が結果的に
低湿地となってしまいました。

このことは万葉集に記載の歌からもうかがえます。

大君は神にしませば赤駒のはらばう田居を都となしつ。(19-4260)

大君は神にしませば水鳥のすだく水沼を都となしつ(19-4261)

いずれの歌も本来は天皇の威徳をたたえる歌ですが、藤原京の場所が
低湿地帯であることが、この歌からよくわかります。

そこで田辺氏は遣唐使がもたらした知識で遷都が意識されたのは
長安城の大極宮も立地が低く湿潤で歴代皇帝が病気がちであり、
それを避けるために大明宮が建設されたということです。

こうした視点で遷都の詔を見ると、あくまで遷都は元明天皇の意思ではなく
天皇並びにその周辺の人々の健康を心配した周囲の人々が,躊躇する天皇を説き伏せ
このままでは皇室の継続が失われると遷都を促した結果であると読み取れます。

こうして遷都された平城京は北が高く南に広がる立地であり、その北の端に大極殿が位置し、
藤原京の12朝堂院形式ではなく長安城の大明宮含元殿の様式を採用したものであると指摘されます。

これは従来の説では十分に納得できなかった遷都の理由がほぼ解明される画期的な説であると私には思え、ここで紹介させていただきました。
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