卒論は枚数制限があり、実は提出した論文の前にもう1章ありました。
ざっと10枚程度ですが、50枚の制限いっぱいに書いたものですから、この章はカットしました。
それは、春日社ができる以前の春日の地についてです。
文献資料に春日と言う地名が最初にあらわれるのは、『古事記』の開化天皇の段の「春日の伊邪河宮」、
『日本書紀』の開化天皇元年十月の条に「春日の地」の「率川宮」
同六十年十月の条に「春日の率川の坂本陵」とあります。
開化天皇(ワカヤマトネコヒコオオヒヒノスメラミコト)「稚日本根子彦大日日天皇」は第9代天皇で、春日の率川に宮があったとされています。
ただ初代の神武天皇に次ぐ2代綏靖天皇からこの開化天皇までは記述がほとんどなく、所謂欠史8代と言われ、その実在性が疑われています。
この開化天皇の名前にふくまれるヤマトネコは、7代孝霊天皇(オオヤマトネコヒコフトニ)、8代孝元(オオヤマトネコヒコクニクルノ)、と共通です。
ネは根、コは子で大地に伸びる樹木を支える意から、国の中心となって国を支えるという意味を込めていると考えられていて、記紀編纂時に加わったと考えられています。
又8代は父子相続で一貫していますが、実在の確かな5世紀以降の皇位継承は傍系相続をあわせており、父子相続が現れるのは持統天皇以降で、これらのことからも後世の造作の疑いを持たれています。
ただ私は、記紀の記述を後世の挿入であるとか、改変であるとかいう説には賛成しません。
もちろん100%真実とは言いませんが、大体は史実に基づいていると考えています。
御陵が3条通りのフジタホテルの横にあり、春日率川坂上陵第9代開化天皇の陵とされ前方後円墳で全長約100m、後円部径48m、前方部幅48m。
ただグーグルで上空から見ても、くびれも見えず、随分メリハリのない形で、本当に前方後円墳なのかなとは思いますが、まあとりあえずこれが現在宮内庁が認めている開化天皇陵です。
日本書紀では、亡くなった年が115歳、孝元22年、16歳で立太子から計算すれば111歳、記では63歳。
皇后が伊香色謎命(イカシコメノミコト)崇神天皇・御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリビコイニイノ)天皇を生みます。
この天皇は御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)と言われ、この天皇から帝記的記事に旧辞的記事が加わり、記述も詳細になるので、この天皇を事実上の初代とする説もあります。
また『古事記』ではこの開化天皇の子供、和珥の臣の祖先日子国意祁都命の妹の意祁都比売命との間にできた子、日子坐王で初めて、記紀ともに「王」の字を用いています。
ここから、今まで皇子は『命』と表記されていたのが「王」という表記が始まっています。
このように、開化天皇からは何かが変わったという感じを受けます。
ともかく、開化天皇に至って、ヤマト王権が奈良県北部に地歩を築いた事はほぼ間違いありません。
そして皇后が和邇氏の出であることも重要です。
春日の地を当初支配していたのが、この和邇氏です。
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