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摂津三島は真の継体陵とされる今城塚古墳があり、鎌足ゆかりの土地として
何度か訪れましたが、阿武山は少し場所が離れていて行きにくく以前から
行きたいと思いながら行けなかった所ですが、今回春日大社からバスツアー
にて参加させていただき念願を果たすことができました。

阿武山は標高281m、奈良の御蓋山298mとほぼ同じくらいの高さです。
其の中腹214mの地点に尾根の地形を利用して作られ、直径82mの墓域を
区画しており現在は、石畳で区画されています。
石室は昭和29年に京都大学地震観測所増設工事で発見され、墓抗の中に
花崗岩の切石と塼で作られ、内側は漆喰が塗られ中央に棺台があり、
台上には夾紵棺が安置されていました。
棺内には60歳前後の男性人骨が横たわり、頭部にはガラス玉を銀線で連ねて綿で
つつんだ玉枕が置かれており、遺骸の上半身部分に多くの金糸が散乱していたことから
金糸を纏う貴人と報道され大騒ぎになりました。
その後、古墳の調査を巡り、考古学教室の濱田青陵教授と当初発掘を主導した
地震観測所を管理する理学部の志田順教授の間で論争が繰り広げられ、さらに
その当時の風潮として身分の高い人物の埋葬施設の発掘が不敬に当たると言った主張が
なされるなど紛糾を重ねた結果、古墳は本格的調査のないまま埋め戻されてしまいました。

ところがそれから50年近くたった1982年、古墳発見から2年後に
亡くなった志田教授の研究室から、Ⅹ線写真や写真のネガが再発見され
最新のコンピュータ解析の技術で画像解析がなされ、1987年に至って
金糸が大職冠である可能性が判明したほか被葬者の年齢や受傷履歴などの画期的
事実が判明しました。
藤原氏・鎌足がこの摂津三島にかかわりがあったことは幾つかの資料から推定でき
考古学的分析から鎌足の古墳であることは、ほぼ間違いないと思われますが、
まだ断定するには至っていません。
私としてはこの何年かに渡って藤原氏・春日大社を研究してきましたので、
阿武山は是非とも来ておきたかった場所です。
古墳への道は細い山道です。





鎌足公の古墳はまさにこれだけ。
今回は春日大社の神職の方も同行されましたので
669年10月16日、今から1350年前に亡くなった
鎌足公の墓前で、全員で祝詞を唱和しました。
私としては、この場所に立てたことで大満足の一日でした。
京大の地震観測所
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さて前回まで、鎌足の死の後の中臣氏の後継者のついて書きました。
 鎌足の後継者は不比等ただ一人です。
 その時、不比等は11歳。まだ氏族を率いるには若すぎました。
それでは鎌足亡き後、藤原の姓はどうなったか?
不比等が史書の中で再登場するのは鎌足の死後20年を経た。
持統天皇3年(689)3月26日。
この日に不比等は直広四藤原朝臣史として他8名と共に判事に任命されます。
不比等31歳のことです。
その間不比等はどうしていたかは不明です。
『尊卑分脈』「不比等伝」にこんな記事があります。
「公避くる所の事有り、便ち山科の田辺史大隅等の家に養わる、其れを以て
「史」と名づくなり、母は車持国子の娘、与志古娘なり」
この避くる事に関してはいろいろな説があります。
一つは壬申の乱です。
鎌足亡き後の中臣氏の氏の上である金は近江方として斬殺されます。
一族である不比等にも厄災が降りかかる恐れがあったから身を隠したという説。
この時不比等14歳。
田辺大隅という人物は記録がありません。
ただ田辺小隅という人物は存在し、近江方の別将で、近江方敗北の後消息不明になっています。
この人物と大隅が同一かどうか不明です。
先の記事では大隅等、と書かれています。大隅とほかのだれかです。
他に不比等の出生に関して、鎌足の実子ではなく皇胤説もあります。

『多武峰略記』『多武峰縁起』(鎌倉時代成立)では
定恵を孝徳天皇の子とする説を載せています。

「鎌足が、妊娠6カ月の車持夫人を天皇から預かり、産まれた子が女なら天皇の子、
男なら鎌足の子とせよ」と言われたという内容です。
不比等を天智天皇の子とする説は、『帝王編年記』『公家補任』も記載があります。

これらの説の真偽は不明ですが、不比等の母が車持夫人であることは、
まず間違いなく、こうした内容はあまり信頼できません。

『日本書紀』は公式の記録ですから、不比等といえども、公事に関与がなければ
載せないという解釈で良いと私は思います。
 
大舎人として仕え始めるのが普通21歳からですから、
この20年の前半は不比等ははまだ位階の授与任官することもなく、
中臣連史として過ごしていたと思います。

 

天武天皇13年(684)新しい姓の制度「八色の姓」が施行されます。
(真人、朝臣、宿祢、忌寸、道師、臣、連、稲置)
この時朝臣は52氏に賜姓されましたが、中臣は朝臣と改まりましたが
その中に藤原はありませんでした。
鎌足の子供である不比等が任官していたなら、当然この中に藤原姓が含まれるはずです。
この時、不比等は26歳、従って大舎人8年の原則からすれば、まだ大舎人
であったと思われます。
ですから不比等はまだ藤原を名乗らず中臣史であったと考えられます。
ところが、中臣氏の氏上であったと思われる中臣大嶋が、翌年、藤原朝臣大嶋として、
記録に現れます。
 天武天皇13年11月1日の朝臣姓授与から翌年9月18日までの間に、
藤原氏に対して追加で朝臣姓が賜姓されたと考えられます。
そしてこの時、記録にはありませんが当然不比等も初めて藤原朝臣を名乗った
 と思われます。
 持統3年には、大嶋は直大四(従五位相当)不比等は直広四(従五位相当)
臣麻呂は務大四(従七位相当)であったことから、氏の上であったであろう
中臣大嶋から申請があり、改めて藤原氏に朝臣の姓が与えられたと解釈されます。
この時点で藤原朝臣氏は大嶋・不比等の二家であったと思われます。
ところが、持統四年・五年には神祇伯として中臣朝臣大嶋の名前が出てきます。
そして持統七年直大二葛原朝臣大嶋に、賭物を賜るという記事があり、
大嶋がこの時点で亡くなったことが分かりますが、なんと、姓が葛原となっています。
更に同じ年、葛原朝臣臣麻呂に直広四の叙位の記事があります。
葛原はおそらく「ふじわら」と読まれたと思われます。
それは、天平宝字元年(757)に
「今より以後、藤原部を改めて久須波良部(くすはら)と為す。
という記事から推察されます。
この変更は藤原が葛原と表記された事実があったから出されたと考えられます。
以上のことから、
中臣氏は鎌足の祖父方子(かたのこ)の三子、御食子・国子・糠手子の兄弟が
中臣に分立していましたが、鎌足の死後藤原の姓の襲名に関して
この中臣氏3門のなかで、鎌足が残した遺産を巡って揉め事があったのではないか
と推察されます。
鎌足の遺産は唯一の子供である不比等が受け継ぐのは当然ですが、
鎌足は中臣氏の氏上であったと考えられ、中臣氏の纏わる遺産に関しては
他の中臣氏も権利を主張したのではないか。
凡そ、広く世間を見ても偉大な創業者の跡を継いだ2代目によって
其の後繁栄が継続するか否かが決まるというのはよく見られる事例です。
ここで2代目である不比等が、他の中臣氏の要求をはねつけ、
朝廷工作の結果、勝ち得たのが 文武天皇二年(698)の詔であったと考えられます。

「藤原朝臣、賜わりしところの姓は、宜しく其の子不比等をして之を
承けしむ、但し意美麿(臣麻呂)等は、神事を供するに縁りて、
宜しく旧姓に復すべし」

この詔は、不比等以外に藤原とか葛原とか名乗る人物がいたから
この詔が出されたということです。

こうして鎌足の死後三〇年にして、不比等が唯一藤原の後継者であることが
この時点でようやく確定します。
この詔の2年前の持統10年初めて直広二藤原不比等(資人50人を賜る)
という記事があります。不比等38歳です。
 恐らく史から不比等への表記の改名はここでなされたと考えられます。
 
藤原の名は不比等以外の中臣氏のだれもが「ならべてならず」「ならびひとしからず」
ただ一人不比等のものという意味です。
 天智天皇の鎌足への誄は、唯一の後継者である不比等の独占するところのもの
であることを名前で示しているというわけです。

藤原氏の以後の繁栄はこのブログの役割ではないので割愛しますが、
わずか2日間だけ藤原鎌足を名乗った鎌足ではなく、
以後の藤原氏の基は不比等から始まりました。
 
 
  
さて鎌足が亡くなった時、後継者は11歳の不比等ただ一人という
心細い状態でした。
子の不比等が直ちに父の地位を占めることは到底できません。
藤原の名前を継ぐ前に、中臣氏の宗家の問題があります。
中臣の宗家は鎌足であったことは、まず間違いありません。
この場合宗家というのは中臣という氏族の代表と考えもらったらよいと思います。
 鎌足の死後、取り敢えず中臣の宗家は中臣 金 が継いだと思われます。
金は鎌足の父御食子の兄弟、糠手子の子供です。
金は天智天皇10年(671)右大臣に任命されています。
ところがその金は壬申の乱で大友皇子方となり、結果斬され、
子供も流されてしまい、ここで中臣宗家の適任者がいなくなります。
この時不比等は14歳。まだ後継者とはなりえません。
鎌足の父、御食子のもう一人の兄弟、国子の子、国足は『日本書紀』には
1回も顔を出さず、天武天皇14年ごろまでに亡くなっていたと考えられます。
その子意美麿は鎌足没時には確実に健在でした。
そこで、尊卑分脈第4編「中臣氏系図」に
「大職冠の猶子と為り、不比等以前に家業を相続す」
大鏡第5巻には「おとどのもとの太郎をば、中臣意美麻呂とて、
宰相までなりたまえり」とあります。
不比等が幼年故、意美麻呂が猶子となったとする考え方ですが、
だとすると不比等よりかなり年上であることが条件となり、
意美麻呂の年齢が問題となります。
和銅4年(711)に卒去したことは、わかっていますが生年は不明です。
不比等より9年早く亡くなっているからと言って、年長であったとは言い切れません。
そこで、年齢推定できる資料として、意美麿が初めて記録に現れるのが
朱鳥元年10月(681)大津皇子謀反事件に関しての記事です。
大舎人中臣朝臣臣麻呂として連座として名前が出てきます。
一般に大舎人は21歳から仕えるものですので、この時
意美麿もそれぐらいの年齢であったと思われます。
そして次に判事として任官するのが持統天皇3年(689)。
大舎人は通常8年務めたのち任官するもので、ここから推定される
年齢はこの時29歳ぐらいと考えて間違いないと思えます。
であるとすれば不比等と同じくらいかもしくは数歳年下となります。
是では、不比等が幼年であったから、意美麿が取りあえず鎌足の
猶子と為ったという大鏡の記事の信憑性が疑わしくなります。

 

そこで次に壬申の乱で処刑された中臣金の弟、許米、
その子大島の存在がクローズアップされます。

大島は天武天皇10年(681)の記事に大山上中臣連大嶋として名前があり、
さらに同年大山上(正6位相当)から小錦下(従5位相当)に進みます。

持統天皇4年正月1日即位の折「神祇伯中臣大島朝臣」として
「天神寿詩」を読み上げたとあります。養老令によれば
天皇践祚に際して


「凡そ践祚の日、中臣、天神の寿詩を奏せよ、忌部、神爾の鏡・剣を上れ」
と定められており、このことから大嶋が中臣氏の
家職を継いでいたであろうことが分かります。

 そこで、次にでは、藤原の名はどうなったかが当然問題となりますが
このことについてはまた改めて書きます。

 


 

もう年なのであまり間口は広げず最近は春日大社周辺に集中しています。
社家について調べていくうちに、その根本である藤原氏について
もう一度調べてみることにしました。
千年の名門貴族である藤原氏のルーツは、はっきりしています。

藤原氏の始祖である鎌足は天智天皇8年10月16日に
56年の生涯を閉じました。

『日本書紀』によれば、鎌足の病中にに天智天皇は
3度にわたって詔を発しています。

その最初は10日で病床にあった鎌足を見舞った天智天皇が

「何か望むことはないか」と声ををかけます。

 

「天道、仁を輔くること、何ぞ乃ち虚説なしとも、善を積みて余の慶あること、
 猶、是微无からんか、「若し須める所有らば,便ち以て聞くべし」

それに対し鎌足は答えて 
  

「臣、既に不敏、当にまた何をか云わん、但し其の葬事は宜しく軽易を
用うべし、生きては則ち軍国に務なし、死しては則ち何ぞ重ねて難さん」

天皇、国家に対して臣下として、責務を十分に果たせなかったから、
あるいは、益無しであったから、葬儀は簡素にして欲しいと言います。
この「軍国に務なし」で使われている国という概念、
 軍という言葉という言葉は耳慣れない言葉で解釈も
 わかれるところですが、ここではあまり深入りはしません。

更に15日に東宮大皇弟大海人皇子を遣わして


「大織冠と大臣の位とを授く。仍りて姓を賜いて藤原氏とす。

 

翌16日辛酉に藤原内大臣薨せぬ。」
最初の10日の詔は、天皇が鎌足を見舞って枕もとで口頭で発したと思えます。
この15日はおそらく文書と思われます。

さらに甲子(19日)に天皇大錦上蘇我赤兄に命恩詔を奉宣ふ。
仍、金の香鑢を給ふ。とありますが
この詔は日本書紀には記されておらず、『家伝』にあります。

(はる)かに前代を思うに、執政の臣は、時々世々一・二に非るのみ,
而るに労を計り、能を校べるに公に比ぶれば足らず、但、
朕は汝の身を寵するのみに非ず、後嗣の帝王、実に汝の子孫を恵み、
忘れず遺れず、広く厚く酬答せん,頃、病重しと聞く、
朕の意ますます軫む、汝の得べきの任を
作らん」


こうして鎌足の死に当たって天智天皇は鎌足に藤原という姓を与え、さらに
後嗣の帝王、実に汝の子孫を恵み、忘れず遺れず、広く厚く酬答せん」
と藤原氏の子孫に対してまでの厚遇を約束し、
ここに藤原氏と天皇家の結びつきは、天智天皇、更に大海人皇子(のちの天武天皇)
更に官僚のトップである蘇我赤兄を証人として確約されたわけです。
この子孫に対する約束は100年後の称徳天皇によって
藤原永手の右大臣就任に当たって「志乃比己止(しのびこと)の書)
」として再確認されます。
こうして藤原という名前が鎌足に授与されましたが、
鎌足はその2日後に亡くなります。
鎌足が藤原鎌足であったのはわずか2日間のみです。
そこでこの名前がその後どうなったかが問題です。

 


 

アカダマ会の例会の翌日春日大社で東京理科大伊藤教授の講演がありました。
まず全国の主な社家町と社家住宅について。
京都の上賀茂神社、島根の出雲神社、三重の伊勢神宮、
広島の厳島神社、山梨浅間神社の御師町などの紹介です。
社家町そのものの歴史はもっと遡りますが、17-18世紀に
進展したが、現存する近世社家住宅は19世紀前半から幕末期の
建築がほとんどであるということです。
春日の社家町である高畑は建治2年(1276)には存在し元禄2年(1698)
には禰宜町としてご赦免地となり家数80軒すべてが禰宜屋敷であると
記録にあります。
その中で藤間家住宅は高畑町にあって18世紀にさかのぼる
古式を留めた社家住宅の空間構成が良好に残された唯一の歴史的
建造物であり、全国的に見ても稀有な存在であるとのことです。
さらに明治の国家神道による旧神官免職の後も住み続けられたことで
その住環境は現在まで継承された貴重な存在であると指摘されました。

話は違いますが、私の友人から高畑はかっては遊郭があったそうだと
言われ、いったいどんな本にそれが書いてあるのか聞いたところ、
光文社文庫『奈良の旅』で、著者は松本清張・樋口清之氏でした。
松本清張氏はフィクションの人ですから何を書いても自由ですが
樋口氏は考古学の泰斗。
その方が書いてあることは真実と受け取られかねません。
社家町と門前町は大体において別の場所にあるのが普通で、
そのことは、伊藤教授も講演の中で指摘されていました。
 高畑は社家町であり、春日の門前町ではありませんが、
樋口氏は両者を混同し高畑が春日の門前町であり遊郭が栄えたと
書かれており、これは全くの誤謬です。
そのことは、はっきりとここで指摘しておきます。
さて余談が長くなりましたが、鎌倉時代から社家町として栄え、
明治以降はその立地と景観が醸し出す雰囲気で多くの文人が魅了された高畑。
そして現在唯一の現存する根宜屋敷である藤間家を保全し、
高畑の独特の景観を後世につなぐため、一般社団法人高畑トラストが設立されました。
現在賛助会員・寄付の申し込みを受け付けています。

お問い合わせはEmil   shingosakuma@gmail.com 携帯08066366771



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奈良市にあった喫茶店『可否茶座 アカダマ』の元マスター.
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