category:From マスター
今上陛下の即位の祭典は11日の祝賀の行事を最後に
ほぼ終わりましたが、京都検定的に少し書いておきますと
明治改元(1868年)と同月に明治天皇は江戸に行幸、
この年に江戸を東京と称する詔も出された。
維新後、京都の衰退に明治天皇も気をもまれ、動揺する京都市民に対し、
明治2年に「このことは遷都を意味しない」との趣旨の告諭があった。
東京遷都の詔勅は出ず、現在まで首都を東京と定める法令はなく、
「東京と西京の両京並立」で遷都ではないという論があり、
京都を「西京」と呼び、遷都ではなく都を定めることを意味する奠都と称している。
明治28年第4回内国勧業博覧会が行われた年は、平安京遷都から1100年にあたり、
これを祝う行事も平安奠都1100年記念祭と称しています。
又、伊藤博文らが尽力した条文で、1889(明治22)年、明治政府は旧皇室典範を制定し、
11条に「即位ノ禮及大嘗祭(だいじょうさい)ハ京都ニ於テ之ヲ行フ」と定めた。
大正と昭和の「即位の礼」と「大嘗祭」は京都で営まれましたが、
しかし、平成の即位礼や大嘗祭は東京で行われ、今や、
日本の首都は東京であると、広く周知されており、今回の大嘗祭も
残念ながら議論すらなく、却って京都でという声を、地域エゴであるとさえ
いう声もあるのが実情です。
陵墓に関しても、明治天皇の伏見桃山陵を最後に京都を離れ、
大正・昭和の天皇は東京都八王子市長房町 武蔵陵墓地に祀られています。
そこで、今年、御寺と言われ108代後水尾天皇から121代孝明天皇までを含め、
二十五方の御陵が泉涌寺の月輪陵・後月輪陵に祀られ、歴代天皇の香華院となる
泉涌寺を訪ねました。
孝明天皇後月輪陵
後、泉涌寺では玄宗皇帝が楊貴妃を偲んで香木で作らせたと伝わる
聖観音像が有名。
どこへ行っても観光客でにぎわう京都も、泉涌寺は少し場所が市内から外れているせいか
静かな雰囲気です。
ほぼ終わりましたが、京都検定的に少し書いておきますと
明治改元(1868年)と同月に明治天皇は江戸に行幸、
この年に江戸を東京と称する詔も出された。
維新後、京都の衰退に明治天皇も気をもまれ、動揺する京都市民に対し、
明治2年に「このことは遷都を意味しない」との趣旨の告諭があった。
東京遷都の詔勅は出ず、現在まで首都を東京と定める法令はなく、
「東京と西京の両京並立」で遷都ではないという論があり、
京都を「西京」と呼び、遷都ではなく都を定めることを意味する奠都と称している。
明治28年第4回内国勧業博覧会が行われた年は、平安京遷都から1100年にあたり、
これを祝う行事も平安奠都1100年記念祭と称しています。
又、伊藤博文らが尽力した条文で、1889(明治22)年、明治政府は旧皇室典範を制定し、
11条に「即位ノ禮及大嘗祭(だいじょうさい)ハ京都ニ於テ之ヲ行フ」と定めた。
大正と昭和の「即位の礼」と「大嘗祭」は京都で営まれましたが、
しかし、平成の即位礼や大嘗祭は東京で行われ、今や、
日本の首都は東京であると、広く周知されており、今回の大嘗祭も
残念ながら議論すらなく、却って京都でという声を、地域エゴであるとさえ
いう声もあるのが実情です。
陵墓に関しても、明治天皇の伏見桃山陵を最後に京都を離れ、
大正・昭和の天皇は東京都八王子市長房町 武蔵陵墓地に祀られています。
そこで、今年、御寺と言われ108代後水尾天皇から121代孝明天皇までを含め、
二十五方の御陵が泉涌寺の月輪陵・後月輪陵に祀られ、歴代天皇の香華院となる
泉涌寺を訪ねました。
孝明天皇後月輪陵
後、泉涌寺では玄宗皇帝が楊貴妃を偲んで香木で作らせたと伝わる
聖観音像が有名。
どこへ行っても観光客でにぎわう京都も、泉涌寺は少し場所が市内から外れているせいか
静かな雰囲気です。
PR
カレンダー
10 | 2024/11 | 12 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | |||||
3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
フリーエリア
最新コメント
[04/21 あき]
[12/09 宮前 英明]
[06/28 大石孝]
[11/08 千鳥祐宣]
[08/10 こちずふぁん]
最新トラックバック
ブログ内検索
最古記事
カウンター
カウンター
アクセス解析
アクセス解析
Copyright © akadama All Rights Reserved.