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こうして、元明天皇の時、藤原不比等によって、平城京への遷都が実現したわけですが、奈良時代はまさに女帝の時代と言えます。

一応7代70余年の奈良時代ですが、その前、持統天皇から始まって、元明、元正の女帝、その間にあった男帝の文武は持統上皇の庇護の下にあったわけですし、聖武天皇も元明、元正の上皇が居て、その上、昨日東大寺において1250年の法要が行われた、光明皇后という大きな後ろ盾の元の治世でした。

そして、孝謙女帝、重礎祚して称徳帝の間の淡路廃帝淳仁天皇はほとんど権力が無かったわけですから、

この間すべて女性が権力の座にあったといっていいわけです。

何故これが可能であったか?

これこそ、不比等の偉大なところです。

律令の整備それにつきます。

法による統治が可能となって権力者が統治しやすい体制が整えられたわけです。

聖武天皇の彷徨と言えるような時でも、今流行の粛々と政治が行われたのは律令のおかげです。

こうして奈良時代は女性の時代であったわけですが、同時に何度も言うように持統天皇の直系の子孫の時代でもあったわけです。

そして、最後の称徳天皇の出現によって必然的にその系譜が途絶えようとしたわけです。

そこから、僧道鏡への譲位まで称徳天皇が考えたわけですが、最後、吉備真備の努力によっていわば宿敵であった県犬養広刀自の娘である井上内親王を妻とする光仁天皇への譲位によって、その子他戸親王が皇太子となって血筋が保たれると言う、いわばウルトラCが考え出されました。

ところが、聖武天皇から押し付けられた形の井上内親王は、白壁王には、ことあるごとに身分の差を見せつけ、酒びたりの白壁王を罵倒し、叱咤激励する井上内親王は言わば目の上のたんこぶと言った感じでした。

そして、光仁天皇として即位した後、後継者である吉備真備が引退し、もう一人の後継者藤原永手が死んだ機会を捉え、ついに井上内親王を廃后し、あまつさえ実の息子である他戸親王も皇太子を廃嫡するだけでなく、2人を殺してしまうと言う挙にでました。

こうして、渡来人の血である山部王を皇太子とし、ここに完全に持統天皇の血筋は消滅してしまいます。

だから、私の奈良時代は井上内親王,他戸親王の死をもって終わりとするのです。

自分の妻子を殺すという挙にでた光仁天皇、さらには実の弟を死に追いやった桓武天皇、ここから怨霊が跋扈する平安時代へと移っていきます。

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