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奈良大学通信学部OB会の学友会近畿支部の見学会に初めて参加しました。

三島と言うところが私の長年のテーマである春日大社と
それに関わる藤原氏・中臣氏に大変ゆかりの深い土地だからです。

ただ、今回は私の私的な訪問ではありませんので、まずは三島の有名な
遺跡・古墳を訪れました。

最初に、公園として整備されている埴輪工場遺跡です。
ここで大田茶臼山古墳や今城塚古墳の埴輪が造られたとされる5~6世紀の遺跡で
埴輪の窯跡や工房跡が復元されています。
100年にわたって工房として次々と少しづつ場所を変えながら斜面に登り窯が
築かれたことがよくわかります。



番山古墳は5世紀中ごろの地元の有力者の古墳と考えられ、
帆立貝式前方後円墳でほぼ原形が残っている貴重な古墳です。




安満山古墳は安満山の中腹墓地公園の上にあり、タクシーの運転手も場所を知らず
墓地公園と言ってようやく連れて行ってもらえましたが、実は平成9年に
この古墳が発見された時には大変な騒ぎで、見学の人が列をなしたものです。
それと言うのも、この古墳から日本最古の年号鏡、青龍3年〈235〉の銘を持つ
方格規矩四面鏡が、所謂卑弥呼の鏡として有名な古いタイプの三角縁神獣鏡と一緒に
出土したことから、この古墳の主が卑弥呼の使節団の一員であり、
卑弥呼から直接この鏡を授けられたのではないかと考えられたからです。
古墳内部がガラス製の覆いを通して観察でき大変興味深い古墳でした。
古墳のある安満山からは大阪が一望できます。



この三島の地には500基以上の古墳が確認され、古代から一大勢力があったところですが、
その中でも二つの継体陵が最大の見所です。

その一つ太田茶臼山古墳は宮内庁が継体陵として比定している「三島藍野陵」で、
全長230mの抜群の規模を誇る大古墳です。
継体天皇は、応神天皇五世の孫とされ、後継者のいない武烈天皇の死によってヤマト王権に迎えられ、淀川左岸の樟葉宮で即位し、やがて木津川左岸の「筒城宮』、桂川右岸の「弟国宮」に宮を移し、約20年間淀川・木津川流域にに宮を営んだのち、大和「磐余玉穂宮」に入り、『日本書紀』では531年にその地で亡くなり藍野に祀られたとされます。
5世の孫などと言うのは実際のところ、ほとんど他人と言ってもいいような関係ですから、
仁賢天皇の娘である手白香皇女を后として迎えることが条件であったと
考えられます。
相すれば産まれた子は継体天皇の子であるより、任賢天皇の子である手白香皇女の子であることにより、仁賢天皇の孫として皇統は守られる、つまり男系の女子⇒女系の男子と言う継承が成立します。

継体天皇の即位が、大和に入るまでに20年を要したことで様々な理由が考えらていますが、そのことはまた別の機会として、この三島の地で大きな力を持っていたことは間違いありません。
 
真の継体陵とされる今城塚古墳です。
墳丘長181m、周濠を含めた総長は35mの王墓にふさわしい巨大古墳です。

何故この今城塚古墳が陵墓にならなかったかと言えば、
戦国期に山城が築城され
墳丘が破壊されていたことにあると思われます。
享保17年〈1699〉に継体陵は今城塚ではなく、
史料批判のない文献考証と、現地における口碑流伝の採集と言った
「19世紀の学知」に基づき太田茶臼山古墳に治定され、
今に至るまで宮内庁の管理におかれています。
しかし現在では発掘に基づく考古学的検証、文献考証の両面から、
この今城塚が真の継体陵であることは間違いないとされていますが、
幸か不幸か、陵墓にも、陵墓参考地に比定されていないおかげで
史跡公園として整備され、かつまた墳墓にも自由に立ち入ることが出来るのは、
我々にはありがたいことです。
 外提の上に復元された埴輪祭礼場。

最後になりましたが、鎌足と三島については,家伝によれば、
舒明天皇の代に宗業をつがしめしたが固辞して受けず,
三島の別業に帰したとあり、書紀には、
皇極3年に神祇伯を拝したが再三固辞して受けず
疾と称して三島に退去したとあり
この地が中臣氏の故地であったことをうかがわせます。

さらには、私がこの地に来たかった理由は、阿武山古墳の存在です。
阿武山古墳は1934年に京都帝国大学理学部が地下に地震計を
設置するために掘削したところ偶然に発見され石室から
ミイラ化した被葬者が見つかり,
棺内撚金糸が分析の結果鎌足が天智天皇から授けられた大職冠ではないかと
大騒動になった古墳です。
その後古墳は紆余曲折があって埋め戻され、
戦後もしばらくは忘れられていましたが
1982年に至りその当時のエックス線写真が再発見され
再び注目を浴びました。
残念ながら今回は阿武山古墳に足を運べなかったのですが、
阿武山を遠望して位置関係が把握できたことを唯一の収穫としました。
 
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