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堀辰夫は奈良を「長い年月の間にほとんど廃亡に帰し、自然のうちに溶け込んだ廃墟」と言いそこに底知れぬ魅力を感じ、志賀直哉は「名画の残欠が美しいように美しい」と奈良の滅びの美を称えた。

会津八一も高畑でその崩れかけた土塀を歌に詠んだが、そうした滅びの美の象徴といえる崩れかけた土塀がここそこに見られるのが、かって志賀直哉も居を構えた高畑の社家町です。

 


 


社家については稿を改めてまた書きますので、ここではそのことに踏み込みまず、
社家町としての高畑についてのみ書きますが、高畑が社家町になったのは
春日の創建時からではありません。
記録でみる限り鎌倉時代中期以降のことです。
当初社家町は春日社の参道を挟んで南側の高畑を南郷。
北側の野田(現在の公会堂あたり)を北郷と呼び多くの社家がそこに居を構えていました。
明治の記録では社家は19家、そしてその分家や使える根宜や神人を合わせ数十軒が軒を連ねていたと考えられます。
これらの社家の通勤路として高畑から春日へ、東から上・中・下と3本の山道があり、
その存在は鎌倉時代の記録にも残っています。
その一番下手の道は現在「ささやきの小道」と呼ばれ親しまれていますが、
その道の入り口あたりには,社家の中でも由緒の高い辰市・大東家が居宅を構え
このあたりが南郷の中心部でした。
志賀直哉の旧居はこの近くにあります。

社家町としてばかりでなく、奈良の東山中から奈良市街への街道としても栄えたこの町が
何故、奈良の滅びの廃墟の象徴となってしまったか?

皮肉にも明治政府の国家神道、神社の官社化がその背景となります。
明治に至るまで、南都の社寺は合計で3万石の朱印領を受け、興福寺の2万石は別格としても
春日も八千石余りの社領を受けそればかりではなく、摂関家からも多くの寄進を受け
多くの神人を抱えていました。
明治のご一新については、奈良では廃仏毀釈で寺の被害は多く語られますが、
実は神仏分離で神社にも大波乱がありました。
興福寺の門跡をはじめ寺僧数十人が春日に参仕することになった上、官幣大社として
官社化された結果、神職に定員制が引かれ、旧社家や禰宜のすべてが解任されて
社領は上知令によって没収。
こうして、多くの社家の屋敷が無住となり、荒廃の一途をたどった結果
志賀直哉や、会津八一が目にした崩れかけた土塀に落箔の気配を漂わせた
高畑が現出した次第です。

私が心配するのは、社家町の風情を今に残す崩れかけた土塀は、
文化財として全く保護の対象とはならず、荒れるに任されていることです。
土塀の維持管理には、家屋敷の保全より多くの金銭がかかります。
家主には、それにかける費用に対する援助はないうえに、
塀を修理しても住まいの快適さには全く寄与しないという葛藤があります。
今や行政にも予算の余裕がないこともわかりますし、だからと言って
このまま、高畑の土塀を手をこまねいて消滅させていってもよいのか?
正直私にも解決法はわかりません。

 
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自己紹介:
奈良市にあった喫茶店『可否茶座 アカダマ』の元マスター.2013年奈良大学通信学部文化財歴史学科を卒業。奈良まほろばソムリエ検定第1期ソムリエ取得。第1回小倉百人一首検定1級合格。
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