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前回は平城遷都まで書きましたが、次に大きな転機は平安京への遷都です。
この時以来、平城京は南都となり、政治経済文化の中心ではなくなり
「都城変じて田畝となる」と旧都の面影を急速に失い、
七大寺を中心とする社寺の都とその姿を変えます。

そこに輪をかけて。京に王城鎮護の寺として延暦寺、園城寺が勃興するにつれて
相対的に南都の寺々の地位も低下していきます。

その中でも、最初から朝廷の手厚い庇護を受けた東大寺はその権勢を保ち、
政権を担う藤原氏の氏寺である興福寺が強大化していったのに対し、
他の五大寺は衰運に向かいますが、元興寺もまさにその典型的な打撃を受けます。

長元八年(一〇三五)に著された堂舎損色見録帳がこの様をよく示しています。

そこには、南門はすでになく、金堂の金物がなくなり、屋根は壊れ、
天井板は朽ち落ち雨もりがひどく、壁は落ち扉も窓も壊れ、僧房の屋根も破れ雨が漏り、
草が生え実に痛ましいさまであると書かれています。 
こうした建物だけでなく、教学の面でも、火の消えたような状態で、
三会の講師や僧綱の名簿からも元興寺の僧侶の名は消え、義昭を最後に
有名な学僧も現れずその光を失った状態でした。

一方興福寺は春日の神威も合わせ、ますますその力を強め
南都と言えば興福寺を意味するほどでした。
11世紀になると元興寺の別当の多くが興福寺の僧侶で占められ、
その援助のもとに寺の維持修造が行われてようやく寺観を保っており、
興福寺の末寺的な存在となっていました。

こうしてかっての大寺としての面影をすっかり失った元興寺にまた大きな転換が訪れます。

それが、浄土思想の興隆と末法思想の成長です。

その中で、三論系浄土教の源である元興寺の僧智光と
その曼荼羅が安置されている極楽房の存在が世間の注目を浴びることになります。

智光の住坊元興寺の東室南階大房の一室が曼荼羅と共に有名になり、
いつしか極楽房と呼ばれ念仏者が集まり、念仏講が結成されてゆきます。

やがては、本来元興寺の僧房であったことすら忘れられ、
極楽房が独立性を高め却って旧元興寺を背負っていく体制となり、
逆に元興寺の寺地は奈良町の中に埋没し、
独立性を高めた極楽房は
東大寺の四脚門を正門とし、元興寺とは無関係に
東に向かった
本堂の形式を作り上げ独立寺院と化します。

さらには宝徳三年(1451)には土一揆がおこって
小塔院から出火し金堂以下主要堂宇のほとんどを失い禅定院まで延焼し、
智光曼荼羅の原本まで炎上します。

わずかに残ったのが五重の大塔と、観音堂と極楽房という有様でした。

以後近世に至るまで元興寺は古代大寺の姿をすっかり失い町に飲み込まれていきます。
その後、江戸時代には幕府より朱印を頂き50石の
知行も与えられ、
智光曼荼羅を中心とした信仰にも支えられ一応の安定を得ましたが、
創建以来1200年その威容を誇り、奈良名所のひとつであった五重大塔が
安政六年(1859)
毘沙門町より出た火に焼かれ灰燼に帰し、
元興寺は全く廃墟となってしまいます。

明治を迎え廃仏毀釈の嵐はこの極楽房にも押し寄せ朱印地は没収され
寺は西大寺預けとなり、事実上無住の状態となります。

極楽房は今の飛鳥小学校の校舎に充てられ、その後も女学校や裁縫学校として使用され、
寺としての機能は全く失われる時期が続きます。

極楽房の復興は戦後になってからのこと、その調査によって禅室が奈良時代の構造を
そのまま残していること、瓦も飛鳥時代の瓦が使われていることなど貴重な事実が判明し、
また屋根裏から中世の庶民信仰の厖大な資料が発見されたことなどから、
禅室、本堂が国宝に指定され、東門も重要文化財。
庶民信仰資料も重要民俗資料に指定され、ようやく復興の気運に向かい
寺院としての活動も開始されました。
こうした民俗資料の整理から発展していったのが、後に稲荷山の鉄剣の
金象嵌文字の発見で一躍脚光を浴びた現在の元興寺文化財研究所でした。

 
  

以上駆け足で元興寺と奈良町の歴史を振り返りましたが、
このように奈良町は衰退した元興寺の旧境内に公権力や町衆といった
はっきりした主導者がいたわけでなく年月をかけて自然発生的にじわじわと
形成されたもので、これがいわば奈良町の特徴です。

元々元興寺の境内地に発生した奈良町は奈良時代の条坊は、ほとんど失われ
新しく町家が立ち、そこは新在家とか新屋町と呼ばれ、条坊を壊して道が新たに通り
突抜町と言った町名ができます。
また元興寺の子院名や花園などゆかりの施設名等が多く名前を今に残しています。

 万葉集の坂上郎女の歌
 「故郷の飛鳥はあれど あおによし奈良の明日香をみらくよしも」
 

この地域は奈良の飛鳥と呼ばれ現在も飛鳥地区となっていますが定説では明日香の飛鳥寺が移ったからこの場所を飛鳥と呼ぶと言われていますが、近つ飛鳥として今の大阪府羽曳野市飛鳥を中心とした地域も呼ばれており、その場所は元興寺とは何のゆかりもないことから
飛鳥寺に付随して名前が移ったのではなく、あるいはその場所に何か共通の特徴が
あるのではないかと私は感じていますが、それは今後の研究課題です。

 

 

 

 

 

 

 

 

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自己紹介:
奈良市にあった喫茶店『可否茶座 アカダマ』の元マスター.2013年奈良大学通信学部文化財歴史学科を卒業。奈良まほろばソムリエ検定第1期ソムリエ取得。第1回小倉百人一首検定1級合格。
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